想いの在処
夫になる人に初めて逢った時、私は自分が空っぽになったつもりでいた。
頬に貼り付けた笑みは社交に足りる上品さであればいい。隙なく化粧した唇から体裁を繕った言葉を紡いでおけばいい。いずれは後継ぎを産んで、政略結婚の駒として正しく役目を果たす人形であればいい。
けれど、アベルはそんな私の中から私自身を……かつてのお転婆娘だったヴィオレーヌを掬い上げてくれた。
先進的な考えで進められる領地運営の話は聞けば聞くほど面白く、机上で学んだ知識が鮮やかに色付いて頭に嵌まり直していくような感覚がぞくぞくするくらい楽しかった。少しずつ連れ回してくれた北の地は、今まで知らなかった世界の広大さと深さとで胸を揺さぶった。
飾り気なく朗らかな彼が茶目っ気たっぷりに驚きをくれる毎日に、心から笑わないでいるのは至難の業だった。背伸びを止めてちっとも完璧な淑女ではなくなった私の頭を、優しく撫でてくれた手がくすぐったかった。気付けば傍にいると安心出来るようになった。
彼は私の失恋と捨てきれない未練を知っていた。それでも、一言も責めたりはしなかった。
眼差しに灯る熱を和らげて、決して私を焦がさないように笑っていた。そうして、静かにあたため続けてくれた。
――アベル。貴方との約束が、震えるこの脚を今、動かす。
静寂に揺れる若草の上を進んで、枯れ果てた花の傍へ膝をつく。
軽く触れれば、愛らしい種はころりと手のひらへ転げて跳ねた。
たった数年前、最初に植えた時と変わらない形と重み。
けれど今この種を握りしめた私は、あの日の私と同じではない。
恋に破れて、けれど遠い辺境の地で大切な人たちと出逢い、素直に口を開けて笑うようになった私だった。
「――勇者様、私のお話を聞いていただけますか?」
「……はい」
急かすこともなく私の答えを静かに待っていた人の声と、春の梢の揺れるざわめき。
深呼吸して息を整えれば、大丈夫、もう私の輪郭は崩れたりしない。
「私は、幼い頃からクロード様が好きでした。国の為にといつも公平で努力していらしたあの人が尊くて、守りたくて、少しでもお役に立ちたくて必死で。勉学も社交も何もかも全部、あの人のために」
「大切、だったんですね」
「燦然と輝く宝物でした。私の羅針盤で、生きる意味でした」
蘇るのは懐かしい日々。
今でも胸は切なさに軋む、何も感じないなんて言ったら嘘になる。
「勇者様がいらしてから、クロード様は見たこともないお顔をされるようになりました。感情の滲んだ柔らかなお言葉が増えて、勇者様が心を解いたのだと悟りました。お別れを告げられた時にはもう覚悟を決めていたけれど、胸が張り裂けそうでした。でも多分、私が何より哀しかったのは、」
「……」
「ずっと大切にしてきた宝物が、何の意味もない色褪せたものになってしまうことでした」
痛む爪先で背伸びし続けた私の恋。世界を揺るがす運命の前ではちっぽけ過ぎた恋。
けれど、塵芥のように意味のないものになってしまうのは違うと思った。胸に仕舞ったかけがえのない美しい瞬間が、全部色褪せてしまうのだけは嫌だった。
たとえクロード様にとって何の価値もない恋だったとしても、せめて私は、私だけは。
この恋を、捨てずに抱いていってやりたかったのだ。
「でも恋は、砕けても塵芥になんてならなかった」
「本当は想われていた、から?」
「いいえ――いいえ、そうではありません」
クロード様へ恋をしなかったら、私はきっと、貴族の義務を真の意味で考えることなんてなかっただろう。
歯を食いしばって努力することも知らない、ちょっとお転婆で甘ったれな御令嬢のまま育ったろう。
その私はきっと、トゥディールの人々に好いて貰える人間ではなかったに違いない。
「クロード様に恋をして、恋に破れた今の私だから出逢えた人たちがいます。出来るようになったことがあるのです」
クロード様が私を想ってくれていて、その上で勇者様の手を取る選択をした。もしもそれが真実ならば、何か一つでも違えば未来は変わっていたのかもしれない。あれほど切望したものに届いたのかもしれない。
――けれど。
アベルに出逢わない未来の方が良かったなんて、思わない。絶対に。
「クロード様への初恋は宝物です。私の中に息づいて、私の血肉になって、ここまで歩ませてくれた」
「……、……」
「いつか死ぬ時にだって、輝ける恋が私を導いてくれたのだと、そう言ってみせます」
柔かい大地を踏みしめて立ち上がる。
ミントグリーンのドレスの裾は土で汚れてしまっていたけれど、構わずに堂々とその人の方へ振り向いた。
アベルが一緒に花を植えようと言ってくれたのは私だ。
神さまみたいな人に恋をして、この庭で泣きながら種を蒔いた少女時代を持つ、ちっぽけで意地っ張りな私だ。
だから。
「私は、この足で歩いてきた今を――トゥディールで生きていく未来を選びます」
きっぱりと口にすれば、不思議と歯車が噛み合ったような気がした。
叶わなかった恋。救われた世界。これから生きてゆく場所。
誰のためでもなく、正しいかどうかでもなく、私がそう決めたのだ。
クロード様に恋をして良かった。
そして、アベルに出逢えて良かったと。
「それが、貴女の、選択?」
「はい。聞いてくださって、ありがとうございました」
「あ……」
口を開こうとして、結局何も言えずに噤むその人へ、深く丁寧な礼を一つ捧げる。
花の種を握り締めて脇を通り過ぎ、その場を去ろうと背を向けた。
異世界からやってきて世界を救い、私やアベル、クロード様を含む幾多の人々の運命を変えた少女。
きっともうこんな風に二人きりで本音で話すことはないだろう。恋敵でもあったその人に最後に何を言うべきか、言わないべきか。
考えずとも、答えはとうに決まっていた。
「勇者様。どうか歩んできた足跡を、なかったことになんてなさらないでください。この世界を――私たちの未来を救ってくださって、ありがとうございました」
心を籠めてそう告げ、背筋を伸ばして大きな一歩を踏み出す。
声もなく泣き崩れる気配がしたけれど、もう振り返らない。
この人を本当に救えるのも、その孤独や苦しみに寄り添うべきなのも、私ではない筈だから。
けれど、祈っている。
貴女の選択が、私の選択が、全ての道が、いつか幸福に繋がりますように――。
見上げる空は淡い青の光にきらきらと滲んで、いつまでも見ていたいほど美しかった。