岐路、あるいは世界の命運
救世主の囁いた一言は、死刑執行を告げる鐘のような不吉な響きをしていた。
「嘘です、……時を操る魔法なんて、あり得ません」
そうまで訣別を言わせようとするのかと、あまりに酷い宣告に声が震える。
取り乱してしまわないよう必死で唇を噛めば、黒髪の少女は引き攣れたように笑んだ。
「この世界の魔法使いにとってはそうでしょう。だけど、あたしは違うんです。異世界の勇者の魔法は理論がまるっきり違うってわかっていたのに――教わったことに囚われて、辿り着くのに随分時間がかかってしまった」
そう、淡々と呟く勇者様。
内容は完璧には理解出来なかったけれど、わざとらしさや演技の気配は見受けられない。
この人は異世界からの来訪者。私たちの世界には存在しない魔法を、持っている? 本当に?
「証拠が欲しいなら、」
眼前からほっそりした影がかき消えて、代わりに背後から聞こえる声。
「ほら。同じく不可能とされている空間転移も出来るようになったんです。時を操ることだって、出来ておかしくないでしょ?」
呼吸が止まる。
不可能を可能にする、夢のような勇者の力。
――もしも本当に時を戻すことが叶うなら。
「安心してください、時が巻き戻ったら、あたし以外は記憶も元の時間軸まで巻き戻ります。もう一つは、クロード……ガディアス公爵のこと」
温度を失ったその声が、一瞬だけ痛むように揺れる。
あえて言い換えたそのことが、彼女にとって特別な名であることをひそやかに告げていた。
「ガディアス公爵は、貴女を、ヴィオレーヌ様を心から愛してた」
背後にその人がどんな顔をしているのか、私にはわからない。
「魔と戦っている時も、ずっと貴女のことを話していました。ずっと国のために生きてきたけど、無事に戻れたら、貴女と色んなことを分かち合って生きていきたいって。もっと本音で、沢山話をしてみたいって」
「クロード様が……?」
「今だって、ガロン羊毛織のリボンを机の引き出しに入れているんです。トゥディール領の――貴女の住む地の特産品ですよね?」
少しだけ、苦笑するような響きが混ざる。感情を押し殺せないで溢れたように。
「彼があたしを選んだのは、この世界にいる勇者を捨て置けないからです。ガディアス公は責任感が強いから」
「そんな――そんな、こと、」
「わかっていたのに、もしかしたらって望みを持ってしまった。目を瞑ってこのまま此処で生きていく方が皆幸せになれるんじゃないかって、何度も、今だって、そうだったら良かったと思う。だけどやっぱり、異世界の人間が此処にいたらいけないんです」
それは酷く悲しい言葉だと想った。
愛されていないだなんて、この世界にいない方がいいだなんて。
この人はどれほど悩み苦しんで、その結論に辿り着いたのだろう。
「でも。勝手に時を巻き戻す前に、貴女にだけは、どうしたいかを聞いておきたかったんです」
「……何故、クロード様でなく私にそれを仰るのですか?」
「ガディアス公爵は自分の愛に背く選択をしたけれど、勇者を繋ぎ止めることを選んだのは彼の意思です。あの時選べなかったのは――きっと一番運命を歪められたのは、貴女だったから」
お願いです、と囁いた人から永遠に明けない夜の気配がする。
「この世界の人が望んでくれたなら、あたしは今度こそ最初の一つを選べる。これが正しいんだって信じられる」
自分はどちらを選んでも後悔するのだ、と呻くようなしゃがれた声で。
「選んでください。そうしたらあたしは、おとーさんの生きている、元の故郷へ帰ります」
とてつもなく大切なことを委ねられた気がして、背筋がざわりとする。
頭がじんと痺れて思考がうまく回らない。鼓動だけが壊れたような早鐘を打つ。
この人は恐ろしい魔から私たちを助けてくれた人だ。それがどれほど過酷な任務であったかは推し量ることしか出来ないけれど、慈悲深く献身的な行いだったことだけはわかる。一度救った世界をわざわざ壊すようなことはしないだろう。
……ならば、なぜこんなにも追い詰められたような顔をしているのかしら。
家族の待つ故郷へ帰る未来と、この世界でクロード様と結ばれ生きていく未来。どちらも大切で天秤にかけるのが辛いから?
けれど彼女の愛する人は別の誰かを――かつての婚約者を想っているから、元に戻して踏ん切りをつけたいということ?
まるで傍観者のように一つずつ解釈して、見えないレースのカーテンで自分の感情を覆う。
そうでなくては、今にも叫び出すか崩れ落ちてしまいそうだった。
ねえ、だって、どうして、返すなんて言えるの。
特別な貴女が瞬く間に手に入れて、今手放そうとしているそれは、私の本当に大切な宝物だったのに。
長いこと私の全てだった美しい人。
一番好きなお菓子はクロード様がくれたから。
大人っぽいドレスを選ぶようになったのは、クロード様に釣り合うようになりたかったから。
優美な歩き方も、身に付けた教養も、辛い時にさえ笑ってみせたのも、全部全部、彼の人のため。
ある日突然、全てを奪われるだなんて思ってもみなかった。
胸の奥底で幼い私が泣いている。
壊れた宝物を抱いて、踞って泣いている。
どうしてこわれたの。
どうして、ちゃんといいこにしてたのに。
かえして。わたしのたからものを、かえしてよ!
今ならもう一度許される。この人が差し出した手を取るだけで、簡単に叶えてもらうことが出来る。
だって、勇者様は懐かしい故郷に帰るだけだ。
それをお望みなのだと、それが正しいことなのだと、この人自身がそう言ったのだ。
溢れ出る黒い何かが身体の中を渦巻いて、膨れて、今にも焦げて焼け落ちそうだった。
この醜い感情すら巻き戻して消してくれるというのなら、私は――わたしは。
衝動のままに唇を開こうとした瞬間、春風が吹いて小さな庭を揺らした。
目の前には冬に咲く花の名残。枯れた萼が抱いた、黒い種。
『ヴィオレーヌ、どうか、あの花の種をお土産に持ってきてくれるかい?』
『? それだけでいいのですか?』
『君が帰ってきたら、一緒に植えたいんだ』
『次の年も、その次の年もずっと。そうやっていつか花畑にしよう、――僕ら二人で』
【補足】
・勇者は「自分が召喚され、故郷と異世界とが繋がった瞬間」に巻き戻って父親の生きる世界へ帰るつもりです。
・ヴィオレーヌは時の流れの違いを知らないため、「世界を救った後、婚約破棄が行われる前」に戻るものだと受け止めました。