邂逅
長く真っ直ぐな黒髪を靡かせて、その人は私を待ち受けるように立っていた。
直接見たのはたった一度きり、けれど見間違う筈もない。
すんなりと伸びた手足、異国の空気を纏う涼やかな顔立ち。
「勇者、様……?」
零れ出でた声は掠れてしゃがれて、淑女らしくも美しくもなかったろう。
自分がどんな顔をしているのかさえ分からないほど、思考も感情も真っ白だった。
その人へ何かを想い、ぶつけられる程に、私の心は強くない。
憎しみも怒りも嫉妬も燃やすには重過ぎて、だから、私は、ずっと。
「なんてきれい、」
神秘的な黒い瞳をくるんと丸くして呟いた、その表情はどこかあどけなくて。
絵本の中のお姫様を見つめる小さな女の子のような、色をしていた。
「一目でわかりました。貴女が――ヴィオレーヌさんなんですね」
酷く淋しそうに微笑って、華奢な少女の形をした人は私から一歩離れる。
手を伸ばしてもさわれない距離、けれど互いの顔も仕草も目に入る立ち位置へ。
「貴女があたしの顔なんて見たくないと百も承知しています。だけどどうか今だけ、時間をください」
「…、……なぜ、私など、に?」
「ヴィオレーヌさんにしか渡せないものがあるからです」
凪いだ海のような声が告げる。
そのクリーム色の頬に浮かんでいた哀しみは消え失せて、もう感情を掬うことは出来ない。
戸惑いと不安とがざわりと押し寄せて、指先が冷たくなっていく。
考えてはいけない。氷らせなくてはいけない。この人に向けてはいけない。
独りよがりの滑稽な女ではあったとしても、せめて醜悪な女にはならないでいたかった。
恩知らずな人間になってはいけないと、それだけは――どうか。
祈るような気持ちで立ち竦む私の前で、世界に平穏を齎した救世主はゆっくりと口を開いた。
「あたしは謝りません。だから貴女は、あたしを赦さなくていい」
「いいえ――いいえ、私たちは勇者様に感謝こそすれ、恨むだなんて」
「ヴィオレーヌさんは、本当にきれいなんですね」
相変わらず感情の抜け落ちたような顔のまま、呟く声には自嘲の響きが混ざる。
張り詰めて今にも砕け散ってしまいそうな気配。
この人はいったい何を想い、私に何を求めるというのだろう。
「謝罪の代わりに二つの未来を貴女にお返しします。選んで、ください」
深く昏い漆黒に惹き込まれるように見つめ返す。
何を言っているのか、意味はよくわからない。けれど、とても重要な何かを迫られているのだとだけ理解した。
「トゥディール辺境伯夫人としてこのまま生きてゆく未来と――」
春の陽射し。懐かしい秘密基地。私の庭。
「ガディアス公爵と結ばれる、本来そうなる筈だった未来を」
勝手に踏み入った、見知らぬ、少女の姿の救世主。
――心を縫い留めていた見えない糸が千切れて、何かが堰を切って溢れるのがわかった。
「なぜ……なぜ今更、そのようなことを仰るのです! 戻れるわけがないでしょう!?」
否応無しに瞼に焼き付いた、幸福そうな花嫁の姿。
世界中の全てから望まれ祝福された、完璧な一対。
引き裂くことなど誰にも赦されないだろう、どれほど重い罪になるだろう。
選ぶことなど出来ないと分かっていて、それでも私に言わせようとするの?
私の全てだった初恋を、欠片も残さず棄てさせようとするの?
どうしてそんなに残酷なことを、どうして――!
「戻れると言ったら?」
「なんてことを……それは婚姻を誓った神と、夫と、祝福してくれた人々全てへの裏切りです!」
「誰にもばれないと言ったら?」
その声は幽かで、そのくせ不思議なほどくっきりと耳に届いた。
「あたしは時を操る魔法をようやく見つけました。――今なら、時計の針を、巻き戻せます」