忘れえぬ
ここから本線の時間軸となります。
時系列は「一つの願い」→「春の招待状~温もりの欠片」→「忘れえぬ」。
「……やはり、お供させてくださいませ」
「大丈夫よ、もうすっかり具合が良いの。王宮の中は警護も万全なのだし」
心配で仕方がないといった風に私の周りをうろうろする侍女へと、安心させるように微笑みかける。
新緑の季節に相応しい、ミントグリーンに白い花刺繍が美しいドレスを選んでくれたマルセル。
心浮き立つような春の装いを纏って立ち上がれば、私の踵は揺るぐことなく床を踏みしめた。
「それにね、アベルとの約束を守らなくては」
「旦那さまと?」
「あの人へお土産を探してくる約束をしているの。中身は二人だけの秘密にしようね、って」
だからお願いと首を傾げてねだると、マルセルは胸を押さえてよろめいた。
しばらく精神統一するように目を瞑った後、厳かに答えを返してくれる。
「お昼の時間までですよ……それと、おおよその行き先は教えてください……」
「ありがとうマルセル! やっぱり貴女が大好きよ」
口許を扇で隠さず全力で笑うだなんて、以前の私には到底考えられないことだった。
きっとこの一年近く、私が素直に喜べば喜ぶほど嬉しそうにしてくれる人が隣にいたからだ。
お陰で上品さは目減りしてしまっただろうけれど、心のままに自分を表すことは清々しく気持ちがいい。
何やら悶えている親愛なる侍女へ北東区画へ向かうと告げて、扉の外へ踏み出した。
勝手知ったる王宮の回廊は、僅かな間のうちにがらりと趣を変えていた。
いつも鬱々とした不安に覆われていた灰色の空気は一掃され、行き交う人々の顔はどれも明るい。そこかしこを飾る美術品は華やいだものに取り換えられ、時には水彩画めいた淡い春の花が活けられていた。
懐かしいな、と思う。まだ幼い頃、魔が蔓延るよりずっと前、王宮はこんな風だった気がする。
王妃様気に入りの話し相手である母にくっついて訪れるこの場所は、広大な冒険の舞台だった。
私はたびたび侍女の腕から抜け出しては迷子になり、伯爵令嬢らしからぬお転婆だとよく叱られたものだ。
彼に相応しくあろうと心に決めた、あの日まで。
通り過ぎるどの場所にも小さな想い出が散らばって、春の陽射しに光っている。
ああ、あの東屋でクロード様の親衛隊に吊るし上げられた事件も今となっては懐かしい。
何を言われても絶対に泣かない、みっともない姿を晒したりしないと決めていたから、年上の令嬢方にとってはさぞかし苛め甲斐がなかっただろう。
ティーポットに入った温めのハーブティ――熱々でなく、液色の薄いお茶であった辺りに微妙な配慮が感じられる――をドレスに引っ掛けられても断固として笑ってみせたものだから、やがて嫌がらせは少しずつ減っていった。
もちろん、向けられる悪意や品定めの視線に全く傷つかなかったわけではない。
けれども私にとっては、クロード様が私と同い年の頃にはとっくに読みこなしていた経済学の本に歯が立たないことの方が由々しき問題だった。
何度読んでも目が滑る複雑怪奇な理論の前で、どうしてこんなに頭の出来が違うのかと幾度絶望したことだろう。余りにも真剣に取っ組み合っていたせいで、女なのだから小難しい本ばかり読むなと親に取り上げられそうになった程だ。
頁がぼろぼろになるまでこっそり本を捲った控えの間は、確か今通り過ぎた棟にあった気がする。
私がそこにいると何故知っていたのかはわからないけれど、クロード様の侍従から差し入れが届けられたこともあった。
艶々の甘いジャムが乗った、色とりどりのお花の形のクッキー。
勉学の邪魔をしないようにと直接姿を見せてはくれなかったけれど、貴方が励ましてくれたことが震えるほど嬉しくて。
だから私はお菓子の中ではジャムクッキーが一番好きだ。今でもずっと、大好きだ。
忘れえぬ日々を手繰りながら、人気のない方へと歩を進める。
あの頃捲った本たちの中に、トゥディールの地理や特色について綴られたものは幾つあったろう。
文字でしか知らなかったトゥディールは、今ではもう雄大なガロン山脈の緑の色をしている。麓にはおおらかな人々が実直に生きていて、やり手で朗らかな領主様が今日も仕事に邁進しているのだ。
遠い北の地へ想いを馳せれば、ぬくぬくと温まるような心地がする。
大切な恋をしていた長い長い少女の日々と、賑やかで優しい辺境での日々。
比べようもないくらい色合いも形も違えた二つを抱えて、私はとうとうあの庭に辿り着いた。
――私だけの秘密基地。いつか花の種を植えた、小さな庭に。
『気を付けていっておいで、ヴィオレーヌ。君にお土産をお願いしてもいいかい?』
『もちろん! アベルの欲しいものを全部教えてくださるかしら』
『一つだけでいいんだ』
『まあ、随分欲がないのですね』
『いいや、僕はうんと欲張りだよ』
『ヴィオレーヌ、どうか――を――』