一つの願い
明くる朝は、眩いくらいに晴れていた。
冬でもほとんど雪の降らない王都の空は、冷たく冴え渡る青に染まっている。
今頃はもう雪に埋もれているトゥディールとはかけ離れた景色に、僅かな寂寥感を覚えながら王宮の回廊を歩く。
出立する前に、どうしても見ておきたい場所があった。
王都へ行くのだと伝えた時、ヴィオレーヌは一瞬、どこか遠くを見つめる眼差しになった。
長旅は気が重いとわざとらしくお道化てみせたのは正解だったのだろう。心配性な彼女は、考え込むよりも僕を励ます方へと意識を向けたから。
すぐに向き直ると、大切な友達に秘密を打ち明ける子どもみたいな顔をして、ひそひそと教えてくれたのだ。
幼かった彼女の秘密基地、滅多に人の訪れない、王宮の片隅の庭のことを。
その庭は、今は使われていない側妃のための宮の近くにあった。
華やかな夜会が行われるホールからも、貴族会議が行われる議事堂からも遠く、確かに踏み入る者の少ない一角。
最低限の手入れはきちんとされていたが、どこか寂れた印象は拭えない小さな庭園だ。
この季節だけあって咲く花も少なく、冬木立の梢だけが物悲しく風に揺れている。
『悲しかったり悔しかったり、誰にも顔を見られたくない時ってあるでしょう?』
『君の顔ならどんなに崩れていても可愛い気がする』
『も、もう! そういうことではなくてですね』
『ふふ、ごめんごめん、そんなに膨れると弾けてしまうよ』
名工の手による彫刻めいた美しい頬が、ぷくぷくとむくれると破壊力を増すことをきっと僕だけが知っている。
彼女は、少しずつ心を許してくれるようになっていた。それが恋ではなくても、確かにそうだと分かっていた。
『王宮で何かあるとね、いつも、そのお庭に隠れることにしていたんです』
『小さい君もさぞかし愛らしかったろうなあ』
『アベル様……お話を聞いてくださる気、ありますか?』
『物凄く真剣に聞いているよ、王宮の北東区画だね』
『ええ、特別に教えて差し上げますね』
悪戯っぽく笑った顔はあんまりにも可愛く、だから思わず頭を撫でてしまったのはやむを得ない話なのだ。
みだりに触れないよう気遣っていたのにと密かに慌てたけれど、一瞬目を丸くした彼女はやがてふわんと綻んだ。
慣れない感触に戸惑うように、けれどくすぐったそうに目を細める姿は仔猫みたいにいとけなく、抱き締めずに済んだのは僕の鉄の自制心の賜物である。
『二年ほど前に種を植えたら、なんと芽が出たんです』
『結構最近だ! 君……ドレス姿で土をほじくり返したのかい?』
『だから秘密だと言ったでしょう』
澄まし顔で嫋やかな指先を唇に当てると、彼女は優しくこう言った。
『あれは冬に咲く花だったんです。ねえ、アベル様』
――私の代わりに、見てきてくれますか。
辺境伯夫人となったヴィオレーヌがこの先王宮を訪れることがあるとしたら、国事規模の祝賀くらいしかないだろう。
人目につかない小さな庭へ、土で汚れることも構わずに踏み入ることなどきっと二度とありはしない。
少女であった日々の欠片をそっと託してくれた彼女は、夜の淵で透明に微笑んでいた。
白い石の敷かれた小道を進んで、一番背の高い樹を目印に、右手にある生垣をくぐる。
誰の目から隠された、ささやかな空白。雑草も疎らなその場所の真ん中に、陽だまりのような淡い黄色の花が咲いていた。
きっと種が零れて増えたのだろう、幾つも群れて、冷たい冬の庭でそこだけ温もりを漂わせている。
「ヴィオレーヌ」
思わずそう呼び掛ければ、蜂蜜の色をした少女が蹲る幻が見えた気がした。
遠い星のような人に恋をした少女。追いつこうと駆け続けて、転んでもまた駆けて。無条件に撫でて貰うことも知らないで。
誰にも見られないように、ここで一人、零れた涙を埋めていたの?
その頃の君を抱き締めてあげられたら良かった。そんなに頑張らなくたって、君が君でいるだけで愛しく思う者がいるのだと教えてやりたかった。たとえ叶わなくても、傍にいたいと伝えたかった。
「笑ってくれ、ヴィオレーヌ」
華奢な背中を丸めて泣いている幻へと届かない手を伸ばす。
ヴィオレーヌ。ヴィオレーヌ。ヴィオレーヌ。
君の傷はどうすれば塞がるのだろう。君の恋はどうすれば解けるのだろう。
優しい心の軌跡を辿る度にもっと好きになって、同時にその痛みを思い知る。
いつの間にか滲んだ視界がきらきらと光って、花びらの上に滴が落ちた。
大の男が泣くなんてみっともない? でも、それでいい。
だってほら、ヴィオレーヌ。君とお揃いだろう。
ちっとも思い通りにならない恋に炙られて、ひとりぼっちで泣いている。
お伽噺の主役になんかなれない、美しく正しい結末なんて知らない。
ただ、君が心から笑ってくれるなら、何だっていい。誇りも名誉も、誰に謗られても構わない。
――君と世界を天秤にかけるなら、僕は君を選ぶ男だ。
そうであれることが誇らしくて、ゆっくりと小さな庭に背を向ける。
何を成すべきかはもう決まっていた。
異世界を救うと決断した勇者の為ではなく、王国を献身的に支える英雄の為ではなく、――たった一人愛する女の為に。