夜の訪問者
「夜分にごめんなさい」
ノックと共に聞こえてきたのは、若い娘の声だった。
その不思議な内容とあり得ない状況に酔い過ぎたろうかと首を傾げる。
王国中の重要人物が集まっている以上、王宮の警備には相当な厳戒態勢が敷かれている。
貴族同士であろうと無暗に客室を訪ねてくることは出来ないようになっているし、使用人も決まった面子が決められた時間にしかやって来ない。
聞き覚えのない声の持ち主が、夜も遅いこの時間に扉の前で立っている筈がないのだが。
「今帰ってきたばかりだ。用件があるなら明朝以降でお願いするよ」
無視をするのも気が引けて扉の傍へ寄り、とりあえずそう答えてやる。
酔いによる幻聴だとしたら少し気恥ずかしいが、警備兵はいちいち気にしやしないだろう。
どうせ酔っているのなら、もっと溺れて泥のように眠りたい。
ワインをもう一杯飲んだら丁度良いだろうか――。
「非礼を心からお詫びします。でも、どうしても今夜しかなくて」
振り向いた室内に。いる筈のない人影が。忽然と。
「夢ではなく現実です。それと、貴方の命を狙う刺客でもありません」
すっくりとそこに立っている。か細い黒髪黒瞳の娘。
「森村咲耶といいます。あなた方が勇者と呼ぶ者。――アベル・トゥディール辺境伯ですね?」
ぎぎぎと音を立てそうなほどぎこちなく頷くと、相手は困ったように眉を下げた。
その姿はいつか絵本で見た登場人物にそっくりで、あの絵師の腕の確かさに今更ながら感心する。
それにしても、これは一体どうしたことだろう。
美しい御伽噺のどこにも、僕のようなその他大勢の出番などなかったというのに。
「……それで、折り入って話がおありだと」
来訪者を座らせたソファから、おおよそ五人分は離れた位置に椅子をずらして座る。
僕は妻帯者であり、勇者は婚約中の乙女である。
僕は非武装の一般人であり、勇者は不可能とされる空間転移すら使いこなす希代の魔法使いである。
あらゆる意味で近付きたくない存在であったため、失礼を承知で物理的距離を確保した。
「寛大なお心に感謝します。辺境伯にお願いがあって来ました」
「おや、おかしなことを。勇者たる御方に望んで叶えられぬことなどないでしょう」
現在の王国での勇者の崇められっぷりは尋常ではない。一国どころか世界を救う力を持っているわけで、この地に存在してくれるだけで平和が約束されたも同然なのだ。
筆頭公爵との婚約で価値は倍増、今や王族だって敵わないほどの威光を手にしているのだから。
それがどうして、真夜中に僕の部屋に単身乗り込んでくるんだろう。
今置かれた異常事態について冷静に考え出すと発狂しそうになるので、あえて酔いと疲れで思考を麻痺させておく。
現実逃避とは、人が心を守るために時に必要な措置だ。
「あなたにしか出せない許しを頂きたいんです、トゥディール辺境伯」
「さて――僕などにお渡しできるものかどうかわかりませんが。お伺いしても?」
息をするように出来る筈の好青年スマイルが浮かばないのは許して欲しい。
僕は本当に疲労困憊していたし、非常識な存在と関わりたくもないし、それに、何よりも。
……眼前の存在が、ヴィオレーヌから何もかもを奪った元凶なのだ。
美しく善良な番いの鳥たちを引き裂いた張本人は、緊張した面持ちで僕を見つめている。
ヴィオレーヌの方がずっと美しい。彼女の方がきっと心優しい。
何故こんな女を選んだのだと、ガディアス公を詰りたいような気持ちにすらなった。
「夫人を――ヴィオレーヌ、さんを、あたしたちの結婚式に招待させてください」
――なんだと?
朦朧とする理性が一瞬で怒りに染まる。罵詈雑言が浮かび過ぎて、咄嗟に選べない。
ふざけたことを言う。
彼女を傷つけて、辺境の地に追いやって、今も泣いていることすら知らないで。
これ以上見せつけて切り裂こうと言うのか、僕らの人生を引っ掻き回そうと言うのか。
何が勇者だ。自分勝手な、傲慢な、考えなしの女。何の権利でヴィオレーヌを貶めようとする!
激情に眩む視界を手のひらで押さえ、洩れ出た声は地獄の底から響くような低さだった。
「……何が目的だ」
「彼女に、選択肢を、返したい」
その声は震えていたけれど、ガロン山脈に降る雪のように深々と静かだった。
「勇者の力を、あなたも今、見たでしょう。あたしは世界中の王様の首を一夜にして刈り取ってくることが出来る。街を一晩で灰塵にすることだって出来る。そういう存在なんです」
誰もいない真夜中。異世界からやってきた伝説の主人公と、有象無象の脇役と。
相対しているのが不思議な、なんとも奇妙な取り合わせで此処にいる。
違う生き物同士、どうしたって分かり合えるわけもないのに。
「役割を終えた勇者は世界を左右する最終兵器。クロードが……国を救うためなら尊い身を率先して捧げる人が、そんな存在を野放しに出来たと思いますか」
問われて、閉じた瞼の裏に想像する。右手に慈しんできた婚約者。左手に幾千幾万の民と王国の平和。
道義と責任に縛られ、己の欲など全て削ぎ落したようなあの男は。
きっと迷わずに選んだことだろう。正しい方を、より守られるべき方を。
「あたしはそれを分かっていて、なのに彼の手を取ってしまった。なんにも悪くない人から、問答無用で彼を奪ってしまった」
「……今更、後悔していると?」
「唯一つだけ」
迷いのない答えに顔をあげる。睨むように見据えてやれば、勇者はその真っ黒な瞳で見返してきた。
「この世界に無理矢理連れて来られました。愛する家族と引き離されて、残酷な使命を負わされて、挙句の果てに勝手に平和の象徴にされた。でも、あたしは――最初の一つ以外は、ちゃんと全部、自分で選んだんです。血に塗れて戦うことも、クロードに恋をすることも、この世界に残ることも」
「その結果が、罪なき彼女を犠牲にしたというのにか」
「だからお願いに来ました」
黒い瞳は何もかもを沈めた夜の海のようで、揺れる波の激しさは僕には窺い知れない。
「彼女に、一度だけ選ぶ機会を。その結果がどうであれ、叶えるために全力を尽くします」
「馬鹿げた話だ。ご自分で言ったろう、世界の命運を左右する存在だと。ガディアス公が勇者を手離せるわけがない」
「あたしがこの世界からいなくなればいいんです。最初から、異物でしかなかったんですから」
けれど、と宵闇の睫毛が伏せられる。そうするとやけに幼く見えて、ヴィオレーヌと同じくらいの年齢なのだと気付いた。
「あなたを巻き込んでしまうことだけは申し訳ないと思いました。だから……お許しを、頂きたかった」
「ああ、随分と身勝手だ。貴族社会で夫を取り替えるなどあり得ないし、僕はヴィオレーヌを愛している。貴女の自己満足の贖罪に、何故こちらが代償を払わねばならない?」
「っ、」
細い首が項垂れて、握りしめられた拳が小さく震える。
世界を滅ぼす力を持った存在だなんて信じられない程に弱々しい、只の娘。
戻せる筈もない時計の針を逆巻こうと足掻いている、不器用で浅はかな娘。
その蒼褪めた横顔を冷たく一瞥してうっそりと立ち上がる。
眠くて、眠くて、もう限界だった。
「――お引き取り願えますか、勇者殿」
哀しげに歪んだ昏い瞳には、けれど涙は流れない。
きっともう泣くことも出来ない程に疲れてしまったのだろうと思う。僕にはこれっぽっちも関係ないが。
深く頭を下げた彼女はそのまま幻のように掻き消えて、部屋には静寂が取り戻される。
ふらふらとベッドへ歩み寄って、そのまま、夢も見ないで深く眠った。