涸れた涙
「おお、ヴィオレーヌ殿。今日はまた一層匂やかに咲く花のようだ」
「御機嫌よう」
聞き飽きた賛辞の言葉を軽く受け流し、ドレスの裾を引いて王宮の廊下を進む。
廊下の行き着く果ては王宮の誇る薔薇園だ。
王宮の庭は勿論どこも美しく整えられているのだけれど、この薔薇園は庭師達の気合いの入れ方が違った。
かつて、賢王と謳われた三代前の王が王妃に捧げたと言われる場所。
慎ましく控えめな王妃は豪奢なドレスより宝石より、朝露に濡れた薔薇を喜んだという。
賢王はその健気さを一層慈しみ、庭師に命じて薔薇園を充実させたそうだ。結果、アーチやトピアリーの秀逸さは言わずもがな、王妃の為に新種の薔薇が幾つも生み出されたこの庭は王宮で最も完成度の高いものとなった。
これからされる話を思えば胸が軋むけれど、このうつくしい場所を選んでくれた気遣いはとても嬉しかった。
彼は彼なりに、私への義理を感じていてくれたのだろう。
心の底も見せ合うことなく、恋人にすらなれなかったけれど。
貴族の責務によって繋がれ続けただけの、それだけの絆だったけれど。
「――お待たせしてしまいましたね」
「いいや。相変わらず美しいな、お前は」
白皙の美貌に嵌る紫水晶の瞳が眩しげに細められる。
お世辞など言う必要もないほど高貴な生まれで、実際にそういう人だから、本当に美しいと思ってくれたのだと素直に信じられた。柄にもなく頬が染まる。
見上げるほどに背の高い、秀麗なその顔。
傍に居て触れたいと願っていた。孤高の影が落ちる頬の線に、重責を背負って尚揺るぐことなく引き結ばれる唇に。もう、願っても叶わない。
「ヴィオレーヌ。私は妻を迎えようと思う――この世界を救ってくれた、唯一人の女性を」
「存じておりました。どうぞ……お幸せに」
胸を抉る言葉を、真直ぐにぶつけられて喉が詰まった。必死で吐きだした声はみっともなく震えていなかったろうか。自分では良くわからなかった。
「クロード様はお変わりになられました。それは、勇者様によって齎されたものなのですね」
「変わったと、お前も思うのか」
「そんな風に微笑んだりされませんでしたわ。もう誰も氷のようだとは言わないでしょう」
こみあげてくる涙を必死で飲み込んで、悪戯っぽく笑ってみせる。
せめてものプライド。貴方の一番になれないのなら、もう傍に居られないのなら、美しい、潔い女だったと覚えていて欲しい。
「あれは変な女だからな、うつったんだろう」
くつり、可笑しげな微笑みが彼の顔を柔らかに崩す。血の通う表情は神様が造ったように美しいとはもう言えなかったけれど、優しくてあたたかな色をしていた。
「……ずっとお傍に居ても、わたくしが貴方を染めることはありませんでした」
染められたのは私だけ。心にその姿を棲まわせていたのは私だけ。
恨むつもりはない。時間は十分に与えられていた。物理的な距離の近さも、身分や条件も、全て揃っていた。どんな邪魔もなく、ただ私がクロード様の心を奪えなかったのだ。
僅かに瞠られた紫の瞳へ、精一杯凛とした表情を向けてみせる。
「きっと運命だったのです」
微笑みを乗せた頬に涙の流れることはない。――大丈夫、美しく笑えている。
何かを言おうとした貴方の唇が動く前に、鮮やかに踵を返した。
そのまま一歩踏み出して、少しだけ立ち止まる。
さあ、最後の一言を。薔薇馨る恋人たちの庭には似合わない、されど伝えなければいけない言葉を。
「さようなら、クロード様」
「……お前の上に、いつも神の祝福が降り注ぐことを願っている」
背に掛けられた静かな声に押されて、一歩一歩庭園を遠ざかる。
貴方の口癖だった私の幸せを願う言葉。
それは過去何百回も囁かれたものと寸分たりとも変わらないはずなのに、もはや愛の証ではなく別れの宣告に過ぎない。
皮肉なものだと唇を歪めても、涙はもう出て来なかった。