君の欲しいもの
「アベル様、本当にいい奥方を貰いましたねえ……」
王都へと向かう馬車の中、腹心の部下であるリオンがしみじみと語り出した。
中央権力に我関せずを貫いているとはいえ、北方の要トゥディールの領主として王宮に参内しなくてはならない機会も当然ながら存在する。特に今回は、王国内の各所領における農業・産業の最新状況を明らかにし、今後の国としての復興方針を決める重要な会議が催される。
あの忌まわしき魔の脅威が掃われた今、停滞していた経済の立て直しは急務だった。北方は幸いにして軽微な影響で済んだものの、だからこそ打撃を受けた南方が復興するまで率先して国庫へ貢献しなくてはならない。
その責務を重々承知しているし、ここで特産品の価値が認められたなら長期的なトゥディールの発展にも繋がるだろう。そんなわけで、腰の重い僕でさえ姿勢を正して王都へ向かっているのだった。
「ヴィオレーヌが世界で最も素晴らしい女性だなんて今更じゃないか」
「いやまあ、人を見る目の確かな貴方がそこまで惚れ込んでいる時点で驚異的なんですがね」
「他にも何か理由が?」
積み荷の台帳と申請内容の確認をそれぞれ右目と左目で同時並行しながら会話を続ける。
仕事中に彼女の話題を出されると集中力が途切れるので辞めて欲しいのだが、それはそれとしてヴィオレーヌのことを日がな一日考えていたい欲求は存在する。恋の沼に首まで浸かった愚かな男なので。
「例の学校作りの件でね、非常に人心を掴むのが上手いんです。計画内容はアベル様が助力なさっているんでしょうが、関係者が心を動かされて皆やる気になっていましてね。最近では辺境伯夫人の親衛隊のようになっている有様で」
「僕がしたのは手直し程度であとは彼女の努力だよ、上手く運んで何よりだ」
「成功すると思いますよ。正しい未来に進むと実感できる仕事ってのは本当にいいものですから」
感銘を受けたように頷く部下を見遣る。恐らくヴィオレーヌの姿を反芻しているのだろうと察して、さりげなく書類を膝の上に乗せてやった。
「何ですかこの厚み! 貴方じゃないんだから着くまでに終わりませんて!」
「ヴィオレーヌは努力家で飲み込みが早くて、本当に偉いんだ」
「聞いて! あとはお世継ぎが生まれればトゥディールは安泰ですね」
「……そうなるといいな」
ほんとうに。
だが残念ながら僕は指一本しか彼女に触れていないし、お姫様の心は今もたった一人のものだ。
初めて二人で過ごした夜、覚悟を決めたように瞑った瞼の儚い白さをありありと覚えている。
抱き寄せた瞬間、小さく震えた柔らかな身体。
悲鳴のような吐息は快楽でも怯えでもなく、ひび割れた哀しみから生まれたものだと、その唇から零れた他の誰かの名前で分かってしまった。
そんなにも愛していたのに。彼の花嫁になる筈だったのに。
救われた世界と引き換えに、全部奪われた可哀想なお姫様。
書類の文字をさらさらと追いながら、僕のお土産に笑うヴィオレーヌの顔を思い出す。
捲ったのが奇しくもガロン羊毛織の頁であったものだから、これでリボンを作ろうと頭の片隅で考える。緻密な模様を再現出来る新技術はタペストリーや絨毯の大きな意匠に向くが、単価としては相当な高額になる。リボンや小物入れといった手に取りやすい小品で流行を生み出せば、品質を実感して貰えると同時に知名度の拡大にも繋がる筈だ。
……そんな言い訳をつけて、単に彼女へリボンを贈りたいだけかもしれない。
大絶賛して以来、頻繁にリボンを着けるようになったかわいい君。
時には怒ったり拗ねたり、少女らしく飾らない表情を見せてくれるようになった君。
誰も見ていない真夜中、夢の中でだけ声も出さずに泣いている君。
もしも心から笑ってくれるなら、何を差し出したって惜しくはない。
「ヴィオレーヌが一番欲しがるものは、何なんだろうな」
最近行列で有名な店の菓子なんてどうです? と呑気な返事を寄越すリオンの膝に書類を更に追加する。
王都には、あと数時間で着く筈だった。