不戦敗
恋愛は惚れた方が負けだと先人は語る。彼女が嫁いできて一ヶ月、僕は完全に敗北を認めていた。
くやしい。
かわいい。
かわ……だめだ、思考回路が完全に侵食されている。
朝食の席で向かい合わせに座るヴィオレーヌを爛々と見つめながら――傍目には優しく妻を見守る年上の夫に見えたことだろう――紅茶のカップに感嘆の吐息を零す。
今日の彼女は澄みきった空のような清々しいブルーのドレスを纏って、宝石の一つも着けずにベルベットのリボンで髪を編み上げている。
贅を凝らしたきららかな衣装がこの上なく映える美女のくせに、どこか素朴な娘らしい装いも似合うのは何故なのか。
女神だからか? いや、天使かもしれない。
「今日のドレス、君にとてもよく似合ってる」
「ふふ、毎朝褒めてくださって、ありがとうございます」
「毎日違う気持ちを籠めているよ? 昨日は華やかで光輝くようだったけれど、今日は爽やかで清々しい。リボンだと愛らしさが増すなあ」
胸底の滾る想いを良識という布で濾して重くならない程度に調整した、心からの賛美を贈る。
直接ぶつけたら、きっと誠実な彼女を縛りつけ追いつめてしまう。
取引や政治であれば構わず圧力をかけて成果を得るところだが、ヴィオレーヌには爪で引っ掻く程度のことすらしたくなかった。
何しろ果てしなくかわいいのだ。
僕の賛美を受け取ってにこにことはにかむ頬は美麗さと無垢さを高い次元で両立しており、やはり人間ではなく天使ではないのかという疑念が湧いてくる。
一体どういう人生を送ったらこうなるんだろう。傅かれ褒めそやされて育ってきたはずなのに。
「僕の奥さんは心から喜んでくれるから褒め甲斐がある」
「だって――アベル様は、優れたものを見定める目をお持ちですもの」
テーブル越し、真っ直ぐに射抜かれて鼓動が高鳴る。
僕が審美眼に誇りを持っていることを知っていて、彼女へ向けた言葉を真実だと掬い取る聡明さ。
そんな風にどこか冷静なくせして、照れながら受け止める心根の素直さ。
極上の容姿は毎日眺めていても都度ハッとするほど美しいが、何よりも共に過ごせば過ごすほど感じるその魂が好ましい。
「すっかり見抜かれているなあ。ご褒美にいっそう僕の真心が伝わるお土産を用意しよう、楽しみにしていて」
「まあ! アベル様の選んでくださるトゥディールの名物、私、とても好きなのです。先日のスピネル蜂蜜も、毎日少しずつ大切にいただいていて」
「そんなに気に入ってくれたなら光栄だ、いずれあの街も案内しないとね」
「スピネルの花が咲く頃に? 春の祭典はどんな風に拡大されるのかしら」
きらきらと瞳を輝かせるのは、白い花が街を埋め尽くす春の光景をいつか語って聞かせたからだろう。
不本意な政略結婚で送られた辺境の地を、彼女はそれでも懸命に愛そうとしてくれている。
その記憶力の良さと問いかけの的確さは、健気であると同時に有能であることも示していた。
領主の妻として、いずれ間違いなく力になってくれる筈だ。性格も見目も良い上に仕事まで出来るようになったら僕はどうすればいいのだろう。もう崇めるしかない、やはり神殿建立だ。
「それじゃあ行ってくるよ、トゥディールでいちばん可憐な奥さん」
朝食を終えて、律儀に玄関ホールまでついてきてくれた新妻が品良く手を振って僕を送り出す。
抱き締めることも口付けることもなく、節度を保った優しい距離感。
扉が閉まる瞬間にもう一度振り向けば、甘い蜂蜜の瞳が柔らかく細められた。
ああ、まったくもって惨敗だ。――これは、僕の純然たる片思いでしかない。