商談の心得
トゥディール辺境伯領は、王都から遠く離れた北の地に広がっている。
辺鄙な田舎であることには違いないが、長年かけて善く治められた領地は広大で肥沃、働き者で忠誠心の高い民にも恵まれていた。
僕ことアベル・トゥディールはこの地と領民とをこよなく愛して育った辺境伯家の総領息子だ。早めの隠居を望んだ父から若くして爵位を継いで以来、よりトゥディールを発展させようと努めてきた。
幸いにして領地運営と商売には才があったらしく、僕の蒔いた種はどれも綺麗に結実してくれた。
みるみるうちに豊かになった所領に辣腕家だと持ち上げられたが、僕は根っから善良な田舎貴族だ。面倒事はまっぴら御免なので中央権力とは一定の距離を保ち続けている。
それがどうやら一部の貴族に魅力的に映ったようで、降るように縁談がやってきた――というのがここ数年の話。
その降り方がもはや豪雨のようになった頃、すっかりうんざりした僕は一つの釣書に手を伸ばした。
トゥディール辺境伯領にとって最も利益を得られる縁談。
最も制約が少なく、王都へ引き摺り出される必要のない縁談。
あらゆる点で都合が良い、それだけの話だった。
「アベル様、そろそろお支度を」
「ああ、悪い、急ぎの決裁が多くてね」
執事の差し出す真新しい上着を羽織り、素早くクラヴァットを整える。
落ち着いたモスグリーンを基調にした最上級の生地と仕立て。
派手過ぎず、しかし身なりにはきちんと気の遣える誠実そうな男に見えることだろう。
商談は第一印象で八割方決まるといって過言ではないし、臨むからにはこちらの望み通りの結果を得たい。
「社交界の華と褒めそやされてきた姫君か。上手く手綱を握れるかな」
「相変わらず、顔に似合わず計算高くていらっしゃる」
「合理的で世故に長けていると言ってくれないか」
いかにも温厚篤実そうに見える柔和な顔立ちをくれた母には感謝している。
味方に信頼されるにも、敵を油断させるにも、つくづく使える見目なのだから。
「――ああ、とうとう、やってきたようだよ」
手にした絵本には胡散臭いばかりのきらきらしい英雄譚。
眺めた窓の外には豪華絢爛な姫君の馬車が静かに止まる。
めでたしめでたし。
そう締め括られた物語のその先を、語られない登場人物の心を、人々が知ることはない。
……僕だって、こんなことでもなければ知ろうとも思わなかったろうが。




