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 靴底が滑り、体勢が大きく崩れ、一瞬にして総毛立った。浮遊感のあと、引力と空気抵抗が全身を包む。手が一瞬にして渇き、その次のひと瞬き後にはどっと汗をかく。


 崖から放り出された体は、内臓もまた投げ出されたように浮き上がる感覚を味わう。

 肌を切るような風が耳元でごうごうわめき、服をばたばたとはためかせる。周囲に視線をやれば、岩肌に隣接する森の木々が見る間に近づいてくる。


 急場だというのに、大けがをしたら怒られそうだとか、距離と速度の計算だとか、とにかくこの場に役に立ちそうにないことばかりが脳裏に明滅するように浮かんでは消えた。


 だが、そんな考えも、木々の梢に突っ込んだことから中断される。ちょうど背中から降ろして抱えていた背負い袋を片腕でしっかりと抱き込み、残る腕で顔を覆う。容赦なく、枝々が皮膚や衣服を裂く。


 覚悟していた落下の衝撃は、予想とは大きく違った。

 下に弾力性のあるものがあったようだ。やわらかく包み込むようにすると、衝撃力は低くなる。そのことを、アルノは身をもって知った。


 ぼんやりと仰向けになって空を眺める。高いところから落ちた驚きから、しばらく動けないでいた。心臓だけが猛スピードで動いていた。

 抜けるような青空に白い雲がたなびき、翼を大きく広げた鳥がついと弧を描く。つい先ほどの急場とは打って変わったのどかさだった。


「兄ちゃん、大丈夫か?」

 うかがうような声は子供のものだった。


 背を弾力のあるなにかにつけたまま、顔をひねってそちらを見る。

「地に足がつかないというのは、精神に恐慌をきたすほどに心もとないんだな」

 ふだん、落ち着いていると自認していたが、パニックに陥り、有益なことはなにもできなかった。その思いから出た言葉だった。


「あんなところから落ちたわりには、冷静だな!」

 今度は違う声がする。軽い足音が、ためらうことなく近づいてくるのに、先に声をかけてきた子供よりも警戒心が薄いようだとアルノは考えた。


「兄ちゃん、そいつに感謝しろよ。命の恩人だからな」

「この場合、恩スライム?」

 子供たちの会話に、アルノは驚いた。

「スライム?」

「そう。兄ちゃんが今、クッションにしているのがスライムだ」

「俺はスライムの上に寝ていたのか!」

 驚いて上半身を勢いよく起こす。と、下半身の下でぽよんという弾力性を感じる。見れば、寝具ほどの大きさのスライムが、確かにいた。体表はなめらかで、晴れた空のような明るい青色だ。


「木々で衝撃が緩和されていたとはいえ、助かったのはスライムのおかげか」

 体が接触した瞬間、衝撃を逃がすように下に向かう体に合わせてへこんだような感覚があった。


「そう。命の恩人―――恩スライムだろう?」

「そうだな。ああ、いつまでも乗っていたら悪いな」

 アルノは一か所に荷重がかからないように、そろそろと動いて降りる。


「兄ちゃん、変わっているな。スライムに触っても嫌がらないなんて」

「大抵のやつなら悲鳴を上げているところだぜ」

「そんな恩知らずなことはしない。彼のおかげで助かったんだからな」

 言いながら、落下の際にもしっかり抱えていた背負い袋の中身を確かめる。大きな背負い袋の中でがちゃりと金属がぶつかる音がし、一瞬ひやっとした。一見したところ、破損したものはないようで安堵する。


「このスライムは大丈夫なのか?」

 アルノは二十六歳の中肉中背の男性だ。落ちてきた衝撃は相当なものだ。

「どうだろうなあ」

 子供のうちのひとりは黒髪、緑色の瞳をしており、骨格が浮き出た顔つきだ。見るからにしっかり者で、明言は避けた。

「まあ、平気だろう」

 残るひとりは茶色の髪と瞳をしていて、いかにも生意気そうな顔つきで、鼻を鳴らして答えた。


「このスライムは君たちが使役しているのか?」

「俺たちの仲間がしている」

 黒髪の子供の言葉に、アルノはほかの存在を察する。


「だからさ、恩を返してもらわなくちゃな」

 茶色の髪の子供がにやにや笑う。

「そうだな。だが、大したものは持っていないんだ」

「なんだよ。まあ、見るからに金はなさそうだと思ったけれどさあ」

 アルノの言葉に、茶色の髪の方があからさまにがっかりする。大きな荷物を抱えていたから、妙な期待を持たせてしまったのかもしれない。


「チエム」

「なんだよ、カレル。本当のことだろう。第一、こんなぽやぽやした兄ちゃん、怒ったって恐かねえよ」

 たしなめるカレルにチエムは唇を尖らせる。そんなふたりを見て、アルノはふと気づく。

「君たちは薬草を集めていたのか?」

 カレルとチエムはそれぞれ籠を背負っており、その中の植物に見覚えがあった。

「そうだよ」

「遊んでいても飯が出てくるわけじゃないからな」

 カレルはまだアルノを警戒しているのか、必要最低限の答えしか寄こさないものの、チエムの言葉から彼らの暮らしぶりを読み取る。


「毒草が混じっているぞ」

 チエムの背負った籠からはみ出た草を指さす。

「え?!」

「うっそ、まじかよ!」

 子供ふたりは目を剥く。アルノはポケットから手袋を取り出して嵌め、ふたりに断ってくだんの毒草をそっと取り上げた。


「これだ。この葉の部分が薬草とは違うだろう?」

 アルノが薬草と毒草を並べて葉の部分をなぞるように指で示してみせる。

「あっ」

「えぇ、そんなん、分かんねえよ」

「そりゃあ、そうだな。植物もわからないように似せているんだから。ああ、触らないように。これは葉や茎だけでなく、根にも毒性の成分を持つ」

「うひゃあ」

 伸ばした手を引っ込めたチエムが素っ頓狂な声を上げる。


「兄ちゃん、詳しいな。学者か?」

 カレルが遅まきながら、だからアルノは手袋を嵌めたのだと納得する。

「ああ、そうだ」

 アルノが頷くと、ふたりの子供はさっと視線を交わす。


「ところで、このスライムを使役している人に会いたい」

「「え?!」」

 アルノの言葉に、ふたりの声がそろう。

「なんで?」

 カレルがより警戒した様子で尋ねた。

「そりゃあ、恩人だからさ」

「いや、でも、毒草のことを教えてもらったから、もういいよ」

 あれだけにやつきながら恩返しを求めたチエムが腰が引けた様子だ。


「そうか。じゃあ、君たちの集落に連れて行ってくれないか?」

「なんで?」

 今度はチエムがじっとりとした疑いの目を向けてくる。

「そりゃあ、宿と食事が必要だからさ」

 アルノも先ほどと同じ調子で答えた。


 ふたたび、ふたりの子供は視線を交わしたものの、致し方がないという結論に達した様子だ。この周辺にはほかの集落はなく、置いていっても結局はたどり着くだろうと諦めたのかもしれない。

「いいよ。ついてこいよ」

 ため息まじりでカレルが踵を返す。


 互いに名乗りあった後、チエムがあれこれと質問する。

「なあ、兄ちゃん、学者って学院でやってんの?」

「いいや、大学だ」

「うっそだあ。大学って学院を卒業したやつでも入れないところなんだろう?」

 一般的に、学院は初歩的なことを学び、大学では専門的なことを学ぶ。学者は学業を修めた認定を受け、研究のために大学に所属する。器材や試料が揃っているので、個人で行うよりも研究がはかどるのだ。


 そんな風に話しながら歩いていると、不揃いの大きさの石を積み上げた囲いが見えてきた。

 カレルとチエムが案内したのは、岩山と森に隣接したピルアという名前の寒村だ。補修にまで手が回らない建物が点在する村で、道行く人の顔にはどれも疲労が浮かんでいる。働けど暮らしは楽にならざりで、大きな労力に収穫が見合わないのだろう。


 そんな大いなる疲弊の中でも、余所者への警戒心は強く、アルノにすぐに気が付いた。

「カレル、チエム、そっちの人はなんだ?」

「旅人だよ」

 村人の質問に、カレルは言葉少なに答えた。

「神殿に連れていくのか」

「ああ」

 念を押すようにして村人が言い、カレルが頷く。小さな村ではまず宿泊施設がなく、旅人は神殿で厄介になる。アルノは口を挟まず、自分は神殿に案内されるのか、と思った。


「神殿って言っても、おんぼろ小屋だけどなあ」

 チエムが鼻で笑う。

「チエム! この罰当たりが!」

 わめく村人にチエムは首をすくめると、「先に戻ってらあ!」と言い置いて、一目散に駆けだした。


「ちっ。不信心者が! そんなだから母親に捨てられるんだよ」

 村人が吐き捨てた瞬間、カレルは顔をしかめたが、なにも言わなかった。アルノを視線で促し、歩き出す。

「ふん。愛想のないガキだ」

 村人はチエムへの憤慨をカレルへぶつける。


「チエムは足が速いな」

「うん」

 カレルに並んで歩きながら言うと、短いながらも答えが返ってくる。

「だから、さっきの言葉はチエムには聞こえていなかったさ」

 カレルは歩みを止めずにアルノを見上げた。そして、ひとつ頷き、口元をほころばせた。


 神殿の聖職者はバートという名だとカレルが教えてくれた。

「まだ若いのにうちみたいな小さな村を押し付けられたお人よしだよ。村のやつらは嫌になって逃げださないようにって気を使っているんだ」


 カレルが案内した神殿はチエムが言った通り、寒村の中でも粗末な部類の建物だった。そこから顔を出したバートは三十代の男性だ。

「だ、大丈夫ですか?」

 バートはアルノを見て慌てる。

「アルノは崖から落ちたんだ」

「ああ、それで」

 言いながらバートがアルノの頭や肩をはたく。と、小枝や葉がはらはらと落ちる。見れば、服があちこち破れ、手にも細かい傷がある。

 落下の驚きによって感じていなかった痛みが改めてやってくる。


「中へどうぞ。なにもないですが、まずは汚れを落としましょう」

「ありがとうございます。お世話になります」

「じゃあ、俺はこれで」

 バートとアルノのやり取りを眺めていたカレルが役目は終わったとばかりに身をひるがえす。

「カレル、ありがとう。後で改めてお礼に行くよ」

「そんなの、いいよ」

 カレルはそう言ったが、アルノは気になることがあった。

 落ちたとき、体が接触した瞬間、衝撃を逃がすように下に向かう体に合わせてへこんだような感覚があった。それをスライムが意図してしたのだとすれば、相当知能が高いということだ。俄然、興味を持った。


 バートに手当を受けながら、アルノはカレルとチエムのことを聞いた。

「あの子たちには親がいないんです。本来、神殿は孤児を養護する役割を持ちます。ですが、お恥ずかしながら、このありさまで」

 とてもではないが、子供たちを育てる余裕はなさそうだ。

「子供たちだけで暮らしているんですか?」

「カレルは十歳で、チエムはそのひとつ年下です」

 十分に働ける年齢だという。

「その下にも子供がいて」

「そんな小さな子供たちだけで生活しているんですか?」

「いえ、十八歳のリシェルという女性が彼らの面倒を見ています」




「すらいむです」

「すらいむだよ」

「すらいむなの」

「すらいむかも」

「よもや、すらいむ」

「たぶん、すらいむ」

「すらいむ・くらふと、はじまるよ!」

「まさかね」

「きっとね」

「「「すらいむだから!」」」



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