【貂蝉編3】籠の外の策
王允の屋敷は、いつもの静けさを保っていた。
昼下がりの一室。
香炉の煙が、細く揺れていた。
王允は、それを見つめながら、かつての夜を思い出していた。
洛陽が燃え、空が灰色に閉ざされ、天に向かって声を殺して泣いた夜。
祈りは届かず、空は割れず、曇天は晴れなかった。
王允は、それを知っている。
だからもう、祈らない。
──俺は董卓と共に地獄へ行く。
王允は、先帝に手を合わせる代わりに、拳を握った。
爪が拳に食い込んだ。
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王允は座し、貂蝉を前に置いた。
貂蝉は頭を垂れ、静かに待つ。
王允は長い間、黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「次の宴では、自然に振る舞え」
それだけだった。
理由も目的も、語らない。
ただ、貂蝉の装いを静かに整え、髪を少し変え、衣を一枚増やした。
立ち位置をわずかにずらし、動線をほんの少し曲げる。
言葉は、もう何も加えなかった。
貂蝉は頷いた。
瞳を伏せたまま、香炉の煙を追う。
煙のように、自分もいつか消えてしまうのだろう。
それが何を意味するのか、まだはっきりとは分からなかった。
だが、従わねばならないことだけは、理解していた。
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王允は全てを理解していた。
そのつもりだった。
だからこそ、確かめる必要があった。
董卓と呂布の距離を。
彼らは近すぎず、完全な主従でもない。
呂布は董卓の背後に立ち、董卓は呂布を道具として使っていた。
彼らを繋ぐのは、信頼ではなく、恐れ。
忠誠ではなく、力。
そこに、王允は一つの異物を置いた。
数日後の宴。
董卓が王允の屋敷を訪れた日。
大殿は穏やかに賑わっていた。
酒は控えめ、笑い声も上品。
董卓は上座に座し、王允は隣で談笑する。
呂布は董卓の背後にいた。
方天画戟を横に置き、直立不動。
いつもの位置。
いつもの距離。
貂蝉は、いつも通り動いた。
盃を運び、歌い、舞う。
董卓の視線を集めつつ、決して長く留めない。
王允は董卓と笑いながら、横目で呂布を観察する。
呂布は何も言わず、表情も変えない。
だが、貂蝉が彼の前を横切った一瞬、呂布の視線が乱れた。
すぐに呂布は視線を戻し、再び石のように立つ。
──揺れた。
確信は、言葉にならなかった。
だが、それで十分だった。
王允は見逃さなかった。
心中で、静かに確信する。
──揺れる。
しかし、あえて何もしない。
貂蝉を褒めず、呂布に声をかけず、董卓に女の話題を振らず。
宴は穏やかに進み、穏やかに終わった。
何も起こらなかったように。
董卓は満足げに帰り、呂布は無言で従う。
貂蝉は片付けを済ませ、奥へ消える。
王允は一人、座したまま香炉の煙を見つめた。
拳は握られていた。
籠は揺らすが、扉は開けない。
鳥を驚かせず、ただ傾ける。
それだけで十分だった。
鳥は、揺らされた籠の中でこそ、自分の羽に気づくのだ。
風が窓を揺らし、煙が細く舞った。




