【貂蝉編2】籠の中の戟
董卓の館では、夜ごと宴が開かれていた。
酒が注がれ、肉が運ばれ、女たちが笑みを浮かべて盃を回す。
酒の匂いが濃く、汗と脂の熱気が混じる。
笑い声が重なり、灯りが揺れ、館全体が熱に浮かされたように騒がしい。
呂布は、いつもの位置に立っていた。
大殿の奥、董卓の背後。
方天画戟を横に置き、鎧を鳴らさず、ただ直立している。
剣もある。
鎧もある。
赤兎馬は厩に繋がれ、いつでも駆け出せる。
だが、呼ばれることはない。
彼の役目は、守ることだ。
だが、守るものは董卓の命ではない。
董卓の酒を、誰にも触れさせぬこと。
そして、何よりも、董卓の機嫌を、損ねさせぬこと。
それが、呂布の全てだった。
呂布は剣を帯び、戟を携え、立っている。
だが、斬るべき敵はいない。
守るべきものも、本当の意味では存在しない。
呂布は視線を落とした。
董卓は酒を飲み、侍女の肩を抱き、大きな声で笑い、官僚たちは媚びを売り、将たちは距離を取る。
誰も呂布に話しかけない。
信頼されているのではない。
使われているだけだ。
力があるから傍に置かれ、力があるから誰も近づかない。
ふと、董卓の機嫌が悪くなった。
いつものことだった。
一人の官僚が、言葉を間違えた。
董卓は盃を投げつけ、罵声を浴びせた。
そして、呂布の方を向いた。
「奉先、お前も笑わんか!」
呂布は黙って頭を下げた。
次の瞬間、董卓の手が飛んできた。
頬を打つ音が響く。
痛みよりも、虚しさだけが胸に広がった。
反論はしない。
できない。
この力は、誰のためのものなのか。
この男を守るために、この力が与えられたわけではないはずだ。
しかし、今の自分は、この男の欲を守るためにしか使われていない。
戟の柄に、無意識に指が触れていた。
これで、何を斬ればいい。
誰を守れば、この力は意味を持つ。
苛立ちが胸に広がる。
それは、怒りとは違う。
軽蔑とも、少し違う。
ただの、無意味さへの嫌悪だった。
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宴は続き、やがて終わった。
董卓は満足げに欠伸をし、侍女たちを連れて奥へ消えた。
残された者たちは、散るように館を出て行く。
呂布は一人、庭へと出た。
月が冷たく照らし、風が静かに吹いていた。
厩の方から、赤兎馬が鼻を鳴らした。
呂布はゆっくりと近づき、馬の首を撫でた。
温かな体温が、手に伝わる。
馬は静かに目を閉じ、呂布の手に頬を寄せた。
呂布は、低く呟いた。
「欲に仕えるために、生きてきたわけじゃない」
声は、誰にも届かない。
風に紛れて、消えた。
その夜、呂布はふと思い出した。
数日前の宴。
王允の屋敷から連れてこられた歌妓の一人。
あの女は、董卓の視線を浴びても、媚びなかった。
笑みを浮かべながらも、どこか遠くを見ているような目だった。
欲に染まらず、欲に飲み込まれもしない。
ただ、そこにいた。
名も知らない。
顔も、もうはっきりとは思い出せない。
それでも、なぜか忘れられなかった。
それは、恋ではなかった。
ただ、欲の外にいる存在だと感じた。
この館にはない、別の世界の匂いがした。
呂布は、赤兎馬の首から手を離した。
夜空を見上げ、静かに息を吐いた。
──俺は、籠の中にいる。
風が吹き、葉がざわめいた。




