表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
籠の中の三国志  作者: ゆう
貂蝉編
7/17

【貂蝉編1】籠の中の鳥

王允の屋敷は、今日も賑わっていた。

客たちの笑い声が廊下に響き、酒の香が漂う。



歌妓たちは花を散らすように席の間を巡り、盃を運び、舞い、歌った。

その中に、王允の娘もいた。


名前を、貂蝉。


朝から丁寧に髪を結い上げ、薄紅を指して、いつものように客の前に出る。

琴を爪弾き、声を張り、笑みを絶やさず振る舞う。

誰かが袖を引けば、軽やかに身をかわし、静かに盃を注いだ。


昨日と、まるで変わらない日々。


いや、ただ一つだけ、違うことがあった。


父、王允が、彼女を見ていた。


普段なら、屋敷の主は奥に控え、歌妓たちを遠くから眺めるだけだ。

今日も席に座っていたが、視線が違う。


品定めするような、値踏みするような目ではない。

哀れむわけでもなく、欲を宿しているわけでもない。


もっと静かで、もっと重い。


貂蝉は歌いながら、それに気づいた。

視線が、肌を滑り、髪に絡み、胸の奥に留まるような気がした。

理由はわからない。


ただ、不安が小さな波のように立った。


それでも、彼女は何も知らないまま、笑った。


宴が終わり、客たちが三々五々帰途につく。

歌妓たちが下がる順番が回ってきた。

いつものように頭を垂れて部屋を出ようとした。


その時だった。


「貂蝉」


王允の声が、静かに彼女を呼び止めた。

振り返ると、主は席に座ったまま、姿勢一つ崩さず、ただ彼女を見据えていた。


「今夜は、下がらずにいなさい」


それだけだった。


命令とも頼みともつかない、淡々とした言葉。


貂蝉は小さく頷いた。


理由は聞かなかった。

これまで問うたところで、何かが変わった試しなどなかった。


貂蝉は小さく息を吐き、目を伏せた。


父の言葉はいつもそうだった。

重く、静かで、逃れられない。彼女はただ、従うことしか知らなかった。


昔から、そうやって生きてきた。


だから、今夜も。

ただ、頷くだけだった。



────────────────────────────



他の歌妓たちが去り、部屋に残ったのは彼女だけ。

灯りが落とされ、静けさが訪れる。

遠くで、長安の街の灯が、窓の外に揺れていた。


貂蝉は座ったまま、夜が更けていくのを待った。

指先で裙の裾を軽く握りしめ、すぐに力を抜く。


なぜ自分が残されたのか、わからないまま。

だが、わからなくても、従うしかない。


昔から、そうやって、胸の痛みをやり過ごしてきた。


夜は、静かすぎるほど静かだった。


王允は、貂蝉を奥の一室に呼んだ。

灯りは低く、部屋は静かだった。

貂蝉は頭を垂れ、座った。


王允は、しばらく黙っていた。

やがて、静かに口を開いた。


「今夜、董卓の館へ連れて行く」


それだけだった。

その声には、迷いも、試す色もなかった。

理由は語られなかった。

目的も、説明もなかった。


ただ、王允は立ち上がり、貂蝉の前に近づいた。

髪を整え、衣の襟を直し、薄紅を少し濃くさせた。


「笑いすぎるな」

「俯きすぎるな」


それだけを、淡々と告げた。

貂蝉は頷いた。


問わなかった。

王允の刃のように冷たい目が物語っていた。


自分は選ばれたのではない。

使われるのだと。



────────────────────────────



馬車は夜の長安を抜け、董卓の館へ着いた。

館は、王允の屋敷よりも騒がしく、重かった。

酒の匂いが濃く、笑い声が荒く、息遣いが乱れていた。


その中で貂蝉は歌い、舞い、盃を運んだ。

いつもと同じ所作。

いつもと同じ笑み。


将や官僚たちが、盃を掲げ、侍女たちを囲む。


視線が、貂蝉の体をなぞった。

値踏みし、品定めするように。


だが、その中にただ一つ、異質な視線があった。

背後に立つ男。


その名は、貂蝉ですら一瞬でわかった。

董卓が最も頼る武将、天下に並ぶ者なしと謳われる最強の刃。


呂布。字は奉先。


彼は宴の喧騒に溶け込まず、ただ静かに立っていた。

笑わず、酒を口にせず、侍女たちに手を出すこともない。


視線は貂蝉を捉えていたが、それは獣じみた欲でも、冷ややかな侮りでもなかった。

ただ、遠くを見据えるような、静かな瞳。

鎖に繋がれたまま、なお鋭さを失わない、そんな目だった。


貂蝉はそれを感じ取った。

だが、目を合わせなかった。

合わせる理由など、どこにもなかった。


宴は続き、やがて夜の帳が下りる頃に終わった。

董卓は上機嫌に笑い、貂蝉の肩に重い手を置いた。

指先が布越しに熱を伝える。


「また来い」


低く、満足げな声。

それだけを残して、董卓は奥の闇へと消えていった。



────────────────────────────



馬車が再び長安の夜を走る。

車輪の音だけが、静かに響く。

夜は深く、街の灯が遠く、ぼんやりと揺れていた。

まるで、届かぬ夢のように。


王允の屋敷に戻っても、王允は何も問わなかった。

貂蝉も、何も語らなかった。


自分が何を果たしたのか、彼女にはまだわからない。

ただ、確かに何かが動き始めたことを、肌で感じていた。


董卓の、あの満足げな笑み。

呂布の、貂蝉を通して遠くを見つめるような視線。

そして、自分自身。


籠の中にいたはずの鳥は、知らぬ間に、別の籠へ移されていた。

逃げられたとしても、逃げなかっただろうと、貂蝉は思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ