【王允編5】剣を刺す夜
月はなく、野営の火はすでに消えていた。
曹操は毛布に身を包み、静かに寝息を立てていた。
七星剣は、その傍らに置かれていた。
陳宮は、火の残り灰を前に座ったまま、長い間、動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
七星剣を手に取る。
鞘から抜く音は、ほとんどしなかった。
刃は、星明かりを薄く受け、冷たく、夜に溶け込むように光った。
陳宮は曹操の傍らに跪いた。
剣を両手で握り、喉元に近づける。
曹操の首は、無防備だった。
息は規則正しく、顔は穏やかだった。
剣先が、わずかに震えた。
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──陳宮は今夜の曹操の言葉を思い出していた。
「公台。俺がなぜ董卓を斬らなかったのかと、訝しんでおるのだろう」
陳宮は答えず、ただ見つめた。
曹操は火の残りを見つめながら、静かに続けた。
「董卓は、斬るほどの相手ではなかった。奴はただの凶暴な獣だ。
獣を殺したところで、檻は変わらぬ。
宦官が腐らせたこの王朝に、董卓が地獄を重ねただけ。
董卓を斬ったところで、次の獣が現れる。
それを繰り返すだけでは、何も変わらぬ」
短い沈黙の後、曹操は小さく息を吐いた。
「乱世を終わらせるには、地獄を終わらせるだけでは足りぬ。
新しい秩序が必要だ。それを築けるのは、獣を操る者だけだ」
陳宮は息を呑んだ。
理のある言葉だった。
あまりにも理が尽くしすぎていて、情が一滴も混じっていない。
この男は、理想を語らない。
希望を売らない。
ただ、冷たく、正確に、世の理を切り取るだけだ。
理しかない。
だからこそ、末恐ろしい。
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陳宮の指が、剣の柄を固く握りしめた。
心の底に、氷のような恐怖が沈んでいった。
刃は進まなかった。
夜だけが、陳宮を置き去りにしていった。
遠くで、風が草を揺すった。
どこかで、夜鳥が一羽、短く鳴いた。
陳宮は剣を握ったまま、曹操の寝顔を見下ろした。
やがて、息を吐いた。
剣を、静かに、曹操の喉の傍らの地面に突き刺した。
土の中で、短く鈍い音がした。
立ち上がり、馬に跨った。
手綱を握り、闇の中へ進む。
振り返らなかった。
朝が来て、曹操は目を開けた。
七星剣は、すぐ傍らにあった。
曹操はゆっくりと身を起こし、剣を引き抜いた。
刃を一瞥し、鞘に収めた。
遠く、陳宮の姿は、もう見えなかった。
曹操は静かに言った。
「殺せなかったか。」
風が、草を揺らしただけだった。




