【王允編4】北へ
朝靄はまだ深く、道ばたの草に露が光っていた。
曹操の馬の少し後ろに控え、黙ってついていく男がいた。
名前を陳宮。字は公台。
理想を捨てきれず、長安の官を抛ってきた男だった。
長安の北門を抜けてから、すでに半刻は経っている。
門番は金を握らされ、眠そうな目を擦りながら通してくれた。
追手は、まだ来ていない。
曹操は先頭を走り、七星剣を懐にしまい、一度も後ろを振り返らない。
陳宮は昨夜のことを、頭の中で何度も辿っていた。
王允の屋敷で剣を受け取り、夜の董卓の館に、曹操とともに忍び込んだ。
董卓は酒宴の席にあり、曹操を司空として厚遇し、笑みを浮かべて酒を勧めた。
曹操は七星剣を懐にしまいながら、ただ笑みを返し、杯を傾けただけだった。
斬る気配は、一瞬もなかった。
──と、思う。
館を出たのは、夜が明ける直前。
結局、何も起こさずに、馬に乗り長安を離れた。
機を逸したのか。
それとも、もっと深い計略があるのか。
昨夜は、ただ時が悪かっただけだ。
そう解釈すれば、まだ希望は残る。
陳宮は馬を少し近づけた。
「孟徳殿。」
曹操は足を止めず、わずかに首を傾けただけだった。
「昨夜は……やはり、機が熟さなかったのか。」
曹操は短く、息を吐いた。
笑ったのか、ため息だったのか、判別がつかない。
「機など、最初からなかった。」
陳宮の胸に、冷たいものが落ちた。
機など、なかった。
それは、董卓を斬る機会など、最初からなかったということか。
それとも、斬る気など、最初からなかったということか。
陳宮は言葉を探した。
だが、曹操は再び前を向き、手綱を緩めた。
「急ごう。追手が来る前に、陳留まで距離を取らねば。」
合理的だった。
逃げるための行動は、すべて整えられていた。
馬は二頭。食料は十分。道は事前に偵察済み。
すべてが、失敗を前提にしたように、完璧だった。
陳宮は頷いた。
まだ、この男を信じたいと思っていた。
信じなければ、自分がここにいる意味がなくなってしまう。
道の向こうから、かすかな蹄の音が聞こえた。
追手か。
いや、まだ遠い。
ただの旅人の馬か。
曹操は耳を澄ました様子もなく、ただ前を見据えて馬を走らせ続けていた。
長安の城壁は、霧の向こうにぼんやりと残り、次第に小さくなっていく。
陳宮は無意識に後ろを振り返った。
あの都で、今も董卓は生きている。
王允は、血の杯を飲んでいる。
曹操は、一度も振り返らなかった。
その背中が、陳宮に小さな違和感を残した。
──この男は、何を捨てたのか。
漢か。
王允か。
それとも、自分自身なのか。
朝日が霧を裂き、二人の影を長く地面に落とした。
陳宮は馬を進めながら、長安を捨てたことを後悔はしていなかった。
だが、確信も、持てずにいた。
日が傾きかけた頃、二人は中牟県の成皺という地に着いた。
曹操の父の旧友、呂伯奢という老人が住む家があった。
呂伯奢は曹操の顔を知り、喜んで迎え入れた。
「孟徳! 久しぶりだな。公台殿もご苦労さん。今夜はゆっくり休んでいけ。ご馳走を用意するよ。」
呂伯奢は息子たちに命じて酒を温めさせ、裏の豚小屋へ向かった。
曹操と陳宮は疲れた体を炉端に預け、しばし目を閉じていた。
夜の屋敷は静かすぎて、逆に何かが待ち受けているような気がした。
逃亡者の耳には、どんな物音も敵の足音に聞こえる。
やがて、家の中から物音が聞こえてきた。
刃を研ぐ音。
豚の鳴き声。
そして、低い声。
「縛れ。」
「しっかり縛って、殺せ。」
陳宮は目を開けた。
曹操も、すでに剣を握っていた。
──追手か。
呂伯奢は董卓に与したのか。
金を握らされ、二人を捕らえるつもりか。
曹操は無言で立ち上がった。
陳宮も剣を抜いた。
家の中は薄暗く、家族の影が揺れていた。
曹操が先に動いた。
一閃。
血が噴き、叫びが上がった。
陳宮は後を追い、刃を振るった。
止める間もなかった。
恐怖が、すべてを決めた。
息子たち、妻、婢。次々と倒れていった。
全ての人を殺し、先程までの人の悲鳴が嘘のように静寂に包まれた。
ふと、裏の小屋で、火にかけられた豚を見た瞬間、陳宮は息を呑んだ。
──豚を殺す音だった。
客人をもてなすための、ただの準備だった。
その時、玄関の戸が開く音がした。
呂伯奢が酒を買って帰ってきたのだ。
老人は、家の惨状を見て絶叫した。
曹操は静かに剣を振り下ろした。
再び血の匂いが、家中に満ちた。
二人は馬に跨り、逃げた。
道に出てから、陳宮は息を荒げて聞いた。
「孟徳殿……呂伯奢殿にまで手に掛けるのはやりすぎでは。」
陳宮の心臓はまだ高鳴り、手が震えていた。
血の付いた剣を握りしめたまま、吐き気が込み上げる。
曹操は馬を進めながら、静かに言った。
「誰であろうと、弱みを握られるわけにはいかぬ。
寧ろ我が人を負くも、人にして我を負わしむることなかれ。」
陳宮は言葉を失った。
馬を進める蹄の音だけが、虚しく響いていた。
陳宮は、この男に着いてきたことを後悔はしていなかった。
だが、昨夜から続いていた恐怖は、すべて無意味だったことに気づいた。
いや、無意味ではなかった。
この男の、非情さを証明するために、必要だったのかもしれない。




