【王允編3】いつも通りの朝
遠く、鶏が鳴き始めた。
だが、夜明けには早すぎる。
王允は目を閉じたまま、耳を澄ました。
もう一匹、別の鶏が応じるように鳴いた。
それから、静けさが戻った。
王允は祈るように、いや、どこか暗い予感を抱いたまま、再び床に横たわった。
眠れるはずなどない。
ただ、闇の中で時間を待つしかなかった。
やがて、長安の城門が開く重い音が、遠く響いた。
鈍い、鉄の軋むような音。
毎朝、同じ時刻に聞こえる、あの音。
王允はゆっくりと目を開けた。
部屋はまだ薄暗く、灯りはとうに消えていた。
膝の上の錦の布は、冷えきっていた。
七星剣のあった場所が、空虚に残っている。
外では、朝靄が立ち込め始めていた。
窓の隙間から覗く空は、灰色に濁り、街の屋根々がぼんやりと浮かび上がるだけ。
市井の声が、徐々に聞こえ始めた。
馬車の車輪が石畳を転がる音。
行商の呼び声。
井戸端で水を汲む女たちの囁き。
子供が走り回る足音。
──いつも通りだ。
王允は立ち上がり、窓辺に寄った。
霧の向こうに、長安の街が動き始めている。
商人たちが店を開き、役人たちが邸を出て、兵士たちが交代のために城壁を歩く。
何も、変わっていない。
昨夜、あの男が七星剣を携えて去ったというのに。
董卓の館で、何かが起きた気配すらない。
騒ぎの声も、血の匂いも、伝わってこない。
王允の胸の奥が、静かに冷えていった。
それは、安堵ではなかった。
絶望でもなかった。
ただ、凍てつくような、底知れぬ不安だけが、そこに広がっていた。
屋敷の廊下で、家人の足音が近づいてきた。
老いた家令が、朝の支度を告げにきたのだ。
王允は袍を整え、静かに部屋を出た。
食殿では、いつものように粥と菜が並んでいた。
家人たちが控えめに朝餉を囲む。
誰もが、声を潜めて世間話を交わしている。
「今朝は静かですね。」
「昨夜は、風が強かったですが、相国のお館も、何事もなかったようで。」
王允は箸を手に取り、粥を口に運んだ。
味は、ほとんどしなかった。
家人たちの言葉は、耳に届くだけで、心には入ってこない。
何も起きていない。
それだけが、確かだった。
やがて、朝議の刻が近づいた。
王允は馬車に乗り、屋敷を出た。
長安の街は、霧が少しずつ晴れ始めていた。
市場では商人たちが声を張り上げ、荷車が石畳を軋ませて行き交う。
道端で兵士たちが槍を立て、怠惰に立っている。
女たちの声と、子供の笑い声が交じる。
いつも通り。
馬車の窓から、王允は外を眺めた。
董卓の館の方向に、煙も炎も上がっていない。
叫び声も、馬の嘶きも聞こえない。
あの男は、剣を携えて、どこへ行ったのか。
夜明けまで考えられる、と言って──
結局、何もせずに、ただ時間を潰したのか。
今日の日中に事を起こすつもりなのか。
それとも、すでに長安を離れ、七星剣を別の賭けに使おうとしているのか。
王允の指が、袍の袖の中で固く握られた。
宮殿に着いた。
馬車から降り、玉階を上る。
周りの官僚たちが、静かに集まってくる。
誰もが、顔を伏せ、声を潜めている。
朝議の間は、いつものように重い空気に満ちていた。
大臣たちが席に着き、沈黙が広がる。
誰も、昨夜のことを口にしない。
口にすれば、首が飛ぶことを、皆が知っている。
やがて、刻が来た。
相国・董卓は、いつも通りの時刻に現れた。
西涼の袍を纏い、腰に剣を佩き、玉座の傍らにどっかりと座った。
笑っていた。
いや、ただ口元が緩んでいるだけか。
判別がつかない。
王允は頭を垂れ、膝を折った。
胸の奥の冷えが、さらに深くなった。
何も起きなかった。
それだけが、何よりも不吉だった。




