【王允編2】王允の決断
「司徒殿。夜分、失礼いたします。」
王允は静かに名を問うた。
男はわずかに口元を歪め、答えた。
「曹操。字は孟徳。今は相国の幕下、司空の位にありながら──」
そして、不躾に、しかし迷いなく続けた。
「七星剣を、私にお譲りください。」
部屋に、沈黙が落ちた。
部屋の灯りは、わずかに二人の影を揺らしただけだった。
曹操は座ったまま、静かに待っていた。
七星剣を求める言葉を投げてから、一言も加えない。
ただ、時折、指先で膝を軽く叩く。
そのリズムは、まるで夜明けまでの残り時間を数えているようだった。
王允は黙って、奥の戸棚を開けた。
錦に包まれた剣を手に取り、曹操の前に置くことなく、自分の膝の上に載せたまま、じっと見つめた。
北斗七星の意匠が、薄暗い灯りに鈍く光る。
先帝から下賜されたこの剣を、今ここで他人に渡せば、もう戻らない。
曹操は視線を上げなかった。
ただ、静かに言った。
「司徒殿。夜は、もう深くなっています。」
王允の指が、剣の柄に触れた。
冷たい。
いや、熱いのか。
判別がつかない。
──この男は、本当に董卓を殺すつもりなのか。
それとも、ただ剣を手に入れて、別の道を選ぶつもりか。
城門の外には、すでに馬を用意しているのでは。
夜明け前に長安を抜けられるよう、番兵に金を握らせているのかもしれない。
渡せば、漢に火が灯るかもしれない。
渡さなければ、何も変わらない。
変わらないまま、ただ董卓の酒を飲み続け、笑みを浮かべて、血の杯を傾け続けるだけ。
王允は息を吐いた。
ゆっくりと、剣を曹操の方へ滑らせた。
曹操はようやく顔を上げた。
剣を手に取り、鞘から抜くことなく、ただ重さを掌で量った。
「……思ったより、軽い。」
曹操は低く、ほとんど独り言のように呟き、鞘を抜いた。
王允の背筋に、冷たいものが走った。
いや、冷たいだけではない。
熱く、ざわつくような、獣の息づかいのようなものだった。
王允は無意識に曹操の目を覗き込んだ。
その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
まるで自分が刃を向けられているような、逆の恐怖。
この男の瞳の奥に、董卓を殺す覚悟などないかもしれない。
あるのは、ただ自分の命を最優先に計る、冷たい計算だけかもしれない。
だが、曹操は王允の視線に気づいた様子もなく、七星剣を鞘に戻し、静かに膝の上に置いたまま、目を落としたままで言った。
「これがあれば……夜明けまで、考えられる。」
夜明けまで。
その言葉が、王允の耳に重く響いた。
夜明けまで考えられる──ということは、今すぐ動くつもりはない、ということか。
王允の手が、わずかに震えた。
膝の上の空いた錦の布が、急に冷たく感じられた。
託してよかったのか。
託さなければ、何も変わらなかった。
このまま血の杯を飲み続け、笑みを張り付け、
漢が滅びるのをただ見ているだけだった。
だが、託したことで──
変わるものが、漢の未来なのか。
それとも、ただ自分の首を、より早く城門に吊るすだけなのか。
外はまだ深い闇。
遠くで、犬が一匹、短く吠えた。
曹操はゆっくりと立ち上がった。
剣を懐にしまい、深く礼をした。
「司徒殿。今夜は、感謝いたします。」
そして、裏戸へと向かうその背中を、王允は何も言えずに見送った。
戸が閉まり、足音が遠ざかる。
部屋に、再び静寂だけが戻ってきた。
王允は動けなかった。
ただ、灯りの揺らめきを見つめながら、夜明けが来るのを待つしかなかった。
──あの男は、今どこへ行く。
董卓の館か。
それとも、城門か。
どちらにせよ、明日の夜までには、何かが変わっているはずだ。
変わってほしい。
変わらなければ、自分はまた血の酒を飲むだけだ。
だが、変わったとしても──
それは、救いなのか。それとも、ただ新たな血の始まりなのか。
王允は目を閉じた。
震えは、もう止まらなかった。
遠く、鶏が鳴き始めた。
夜明けには早すぎる。




