【陳宮編2】理の限界
徐州の街は、静かに息を吹き返していた。
劉備が小沛に入ってからの日々は、穏やかだった。
市場に人が戻り、田畑に鋤が入る。
兵たちは城壁を修繕し、糧倉は満ちていく。
民の顔から、乱世の怯えが少しずつ消えていた。
呂布の名は、街の隅々で「恩人」と呼ばれた。
「呂将軍が徐州を救ってくださった」
「故・陶公の遺志を継ぎ、劉使君を小沛にお預けした」
そんな声が、酒肆でも、井戸端でも聞こえる。
呂布は、それを聞いても、何も言わなかった。
ただ、時折、下邳の城外を馬で巡るだけだった。
陳宮は、大殿の隅で書類を広げ、静かに見ていた。
劉備は、小沛を拠点に徐州の政務に関わり始めていた。
民に米を分け、税を軽くし、兵を整える。
忠臣の関羽と張飛は、周辺の治安を守り、流民を受け入れる。
秩序が、徐州全体に戻っていた。
善意で、すべてが行われていた。
呂布は、徐州牧として名を残しつつも、徐州の実権を徐々に失い始めていた。
陳宮は、それを一人、理解した。
籠は、善意で作られる。
劉備は奪っていない。
ただ、受け取り、守り、育てている。
呂布は、それに気づかない。
「奪われていない」から。
預けた籠は、いつしか形を持ち、別の主人のものになる。
呂布は、まだ徐州を自分のものだと思っている。
巡回の帰り、呂布が陳宮の前を通った。
「民は、落ち着いているな」
呂布の声は、静かだった。
陳宮は、頷いた。
「はい。将軍のおかげです。ただ、将軍が劉備から城を奪ったと噂する輩もいますが。」
呂布は、笑い、否定せず、満足そうだった。
何も疑わない。
陳宮は、目を伏せた。
同時に、微笑んだ。
この男は、籠の形を見ない。
ただ、そこにいるだけでいいと思っている。
──俺も、そういたい。
陳宮は静かに目を瞑った。
風が城壁を撫で、旗が小さく揺れた。
徐州の街は、安堵に包まれていた。
呂布の名は、恩人として残る。
だが、実権は、すでに劉備の手に移りつつあった。
裏切りなど起きていない。
ただ、正しさが、静かに積み重なっていた。
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下邳の城は、秋の風に包まれていた。
大殿の一室。灯りは低く、窓の外に月が浮かんでいる。
呂布は座し、陳宮は向かいに控えていた。
徐州の情勢は、変わらず穏やかだった。
劉備の治世は続き、民の声は劉備を讃え、呂布を「恩人」として忘れかけていた。
陳宮は、静かに口を開いた。
「将軍。劉備は、敵ではありません。だが、味方ではなくなるでしょう」
呂布は、目を上げた。
「なぜだ」
声は低く、静かだった。
陳宮は、言葉を選んだ。
「劉備は正しい。
民を守り、城を固め、兵を養う。
すべてが、理にかなっている。
理にかないすぎている。」
呂布は、黙って聞いていた。
やがて、首を振った。
「劉備は汚れていない。」
それだけだった。
呂布は、善意の輪郭を見ない。
劉備が実権を握ったとは思っていない。
ただ、預けたまま、守っているだけだと思っている。
善意が、徐州を固くしていくことに、気づかない。
陳宮は、目を閉じた。
この男は、欲を持たない。
だから、正しさに負ける。
外では、劉備の行動が間接的に呂布を追い詰め始めていた。
糧の分配が劉備の名でなされ、兵の忠誠が劉備に向かい、諸侯からの使者が劉備を「徐州の主」と呼ぶ。
呂布は、それでも疑わない。
「劉備は、義の男だ」
呂布の言葉に、陳宮は答えなかった。
陳宮は、忠告を繰り返さなくなった。
呂布は、その沈黙を、同意だと思った。
月が窓を照らし、影が長く伸びた。
徐州は、すでに別の形を取っていた。
呂布は、それに気づかない。
陳宮は、それを胸の奥にしまった。
──それでいい。
まだ、剣は抜かれていない。
ただ、距離が、少しずつ開いていた。
劉備と我ら。
そして──陳宮と呂布。
理の限界が、近づいていた。
──そんな折、曹操が献帝を保護したとの知らせが入った。
自らは大将軍の位に就き、漢室の正統を掲げる曹操。
曹操にとって徐州は豊かな穀倉地帯。南進の拠点。
徐州は刃を向けられつつあった。




