【陳宮編1】籠の外の理
曹操軍との長期戦となった、濮陽での戦いでは、呂布の槍が冴え、陳宮の火計が曹操を追い詰めた。
天下の覇者と呼ばれ始めた男が、初めて本気で死を覚悟した瞬間を、陳宮は見た。
陳宮は馬上で、遠くの空を眺めていた。
その「天下の覇者」、曹操の首元に七星剣を突きつけ、そして離れた日の記憶が、ふとよみがえる。
──あの日の空と同じだ。
あの時、なぜ曹操を切らなかったか。
答えは、最初からなかった。
ただ、曹操の目は欲を宿していた。
領土を、民を、天下を、すべてを籠に入れ、蓋をする目だった。
陳宮は、そんな籠を嫌った。
──だから、俺は呂布を選んだ。
呂布は欲を語らない。
言葉は少ない。
奪わず、汚さない。
ただ、静かにそこに立つ。
徐州の首都・下邳への道を進む軍勢は、疲れてはいたが、足取りは軽かった。
徐州はもう近い。
先日、徐州牧・陶謙が病没したという報せが届いていた。
別駕の糜竺が、急ぎ使者を遣わしてきたのだ。
「故・陶恭祖公の遺志により、徐州を呂将軍にお預けしたい」
呂布は馬を止め、遠くの城を見た。
広がる田畑、城壁の上に昇る炊煙、民の影。
長い間、黙っていた。
やがて、静かに呟いた。
「俺には、重すぎる」
それだけだった。
陳宮は、隣でその言葉を聞いた。
理解した。
欲の外にある者は、籠を持てない。
呂布は城を欲していない。
ただ、預かるだけ。
だからこそ、重い。
陳宮は目を伏せた。
この男は、天下を取らないだろう。
そして、それでいいと思っていた。
籠の外にいる理。
それが、陳宮の選んだ道だった。
────────────────────────────
下邳の城門が、ゆっくりと開かれた。
門の向こうから、穏やかな笑みを浮かべた男が、静かに出迎えた。
その瞳の奥に、確かに火を灯していた。
この城の現在の主、
劉備だった。
風が吹き、旗が揺れた。
呂布は馬を進めた。
陳宮も、それに従った。
まだ、何も始まっていない。
ただ、籠の外にいる男が、籠を受け取ろうとしていた。
それが何を示しているのか、陳宮にもまだ分からなかった。
────────────────────────────
下邳の城は、静かに夜を迎えていた。
大殿の一室。灯りは控えめで、酒の香りが薄く漂う。
呂布は上座に座し、陳宮はその隣に控えていた。
向かいに座る劉備は、質素な衣を纏い、姿勢を低くしていた。
穏やかな微笑みの中の心は、彼の瞳からは読めなかった。
これは、劉備が呂布に徐州を預けるための最後の会談だった。
「徐州の民は、乱世に疲れております」
劉備の声は穏やかで、義を語る言葉は丁寧だった。
「将軍が徐州をお守りくださるなら、民は安堵いたします。
私めは、ただ一時を凌いできたに過ぎません。
漢の忠臣の私が領地を持つなど、義に反する。
もとより、私には、城を治める才などございません。
乱が収まるまでの間、私は小沛で民が飢えずに済むよう、務めを果たしたいと存じます。」
呂布は、黙って聞いていた。
言葉は少ない。
時折、劉備の目を見る。
幼子のような澄んだ瞳だった。
呂布は、劉備の言葉に頷いた。
劉備は笑みを浮かべ、盃を掲げた。
「将軍の信義に、感謝いたします」
小宴は静かに進んだ。
宴が終わり、劉備が城から去った後。
「汚れていない男だ」
呂布は、静かに言った。
陳宮は、同意した。
「理のある同盟です。小沛は徐州の盾にもなる場所。」
劉備は徐州を欲していない。
民のために小沛を治める。
自ら矢面に立つ。
呂布と同じく、欲を語らない。
だから、安心できる。
ただ──
陳宮の胸に、一箇所だけ、違和感が残った。
劉備といえど、中原の徐州は喉から手が出るほど欲しいはずた。
だが、自ら小沛で務めを果たすことに迷いがなかった。
決断に、情が混じっていなかった。




