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籠の中の三国志  作者: ゆう
献帝編
14/17

【献帝編3】血の玉帯

新しい曹操の籠、許都の宮殿は、静かだった。

整いすぎていた。


月は澄み、灯は揺れず、風は通らない。



長安より、ここは安全だ。

だが、ここには風がない。


劉協は厠にいた。

この場所だけが、わずかに息をつける場所だった。


ここは、監視の目が届きにくく、声が外に漏れにくい。


やがて、音もなく、一人の男が現れた。

穏やかな顔の奥の瞳には、揺るぎない炎が宿っていた。


劉備。字を玄徳。


同じ「劉」の姓をもつ者。


劉備は静かに跪いた。

顔を上げず、声を潜める。


「陛下」


劉協はゆっくりと立ち上がり、劉備に近づいた。


「叔父よ」


──血の近さではない。

それでも、漢の名で結ばれた、唯一の呼び名だった。


「笑えるか。ここが、今の朕の玉座だ。玉座の上では、朕は何も言えぬのだ」


劉備は黙って首を横に振った。


「曹操は奸賊だ。董卓よりも、遥かに狡猾だ。漢は──喰い付くされる。」


劉協の膝が、ゆっくりと折れかけた。

劉備は手を伸ばし、静かに袖を掴んだ。


「陛下、おやめください」

「勅命は、玉座で下すもの。だがここは厠。これは、甥から叔父への願いだ」



それ以上、言葉は続かなかった。



沈黙が落ちた。

劉備は、ただその場にいた。


やがて、ゆっくりと頭を下げ、退がった。


劉協は一人残され、壁に寄りかかった。


枯れていたはずの熱いものが、頰を伝い、音もなく、床に落ちた。


厠の外では、夜警の足音が規則正しく響いていた。



────────────────────────────



あの日、共に長安から逃げた董承が来たのは、夜が更けてからだった。

奥の間に跪く。顔を上げない。


「陛下」と呼ぶ声が、わずかに震えていた。


曹操を「あの方」と呼び、名は出さない。丞相とも呼ばない。

ただ、忠臣が次々と消えていることだけを、淡々と告げる。


残された者たちの名の中に、

──劉備の名が、低く置かれていた。


劉協は何も言わない。相槌すら打たない。


沈黙が部屋を満たす。


董承は、それ以上何も言わなかった。

ただ、ゆっくりと頭を下げ、退がった。


一人になった部屋は、さらに静かになった。


机の上に、紙と筆が置かれている。


誰が置いたのか、考える必要はなかった。


指先を見つめる。


血は、昔から知っていた。

洛陽の床に、長安の道に、逃げた草むらに。

他人の血は、数え切れないほど見てきた。


だが、自分の血は、まだ使ったことがなかった。


劉協は、指の先を噛み切った。


血がにじみ、ぽたりと紙に落ちた。


赤い点が、ゆっくりと広がる。


もう一滴。



筆が血を吸い、文字の色が濃くなる。


筆を握った。


曹操を誅せ。漢室を、救え。


そして、残された忠臣たちの名を連ねた。


最後に、「献帝」ではなく、我が名を記した。


劉協。


──劉。


なんという、呪いの文字だ。




字は、歪んでいた。


涙は流れない。手は震えない。


ただ、血の匂いが、静かに部屋に広がった。


玉帯を手に取る。天子の象徴。

金糸が縫い込まれ、表は輝いている。


その裏側に爪を立て、静かに音を立てて裂いた。

血の乾いた紙を折り、裏に押し込む。

針を取り、糸を通す。


その音だけが、夜に響いた。


厠で膝を折った、声にならぬ声を玉帯の裏に縫い込んだ瞬間、


誰かが死ぬことが決まった。



東の空が、白み始めた。

風は、ここにはまだ通らなかった。



────────────────────────────



許都は、何事もなかったかのように朝を迎えた。

宮殿は整然と動き、儀式は滞りなく進む。


劉協は玉座に座し、曹操は忠臣として跪く。

言葉は形式通り、笑みは変わらず。


誰も、何も知らない。


献帝から董承に玉帯が贈られた。


恩賞であり、信任であり、形式だった。

深く頭を下げ、膝をつき、恭しく受け取る。


臣下として当然の所作。


董承は、献帝から直接何も聞かされていない。

ただ帯の裏に縫い込まれた違和感に気づいた。


夜、灯を消した部屋の済で、董承は玉帯の裏を裂いた。


血の文字が現れた。



────────────────────────────



数日後。


劉協が詔に連ねたほとんどの忠臣が、一族共に謀反の罪で誅された。

董承は、最後まで剣を握っていたという。


劉協のもとには、ただ報せが届くだけ。

形式の言葉で、淡々と。


劉備は、「徐州の袁術を討つ」という名目で許都を脱出していたと知った。


──殺されなかった。

ただ一人、漢の残り火を継いでくれたのか。

それとも。


劉協は切った指を無意識に押さえた。


曹操が、玉座に近づいてきた。


変わらぬ笑みで、ゆっくりと跪く。


「陛下、何かお困りですかな」

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