【献帝編3】血の玉帯
新しい曹操の籠、許都の宮殿は、静かだった。
整いすぎていた。
月は澄み、灯は揺れず、風は通らない。
長安より、ここは安全だ。
だが、ここには風がない。
劉協は厠にいた。
この場所だけが、わずかに息をつける場所だった。
ここは、監視の目が届きにくく、声が外に漏れにくい。
やがて、音もなく、一人の男が現れた。
穏やかな顔の奥の瞳には、揺るぎない炎が宿っていた。
劉備。字を玄徳。
同じ「劉」の姓をもつ者。
劉備は静かに跪いた。
顔を上げず、声を潜める。
「陛下」
劉協はゆっくりと立ち上がり、劉備に近づいた。
「叔父よ」
──血の近さではない。
それでも、漢の名で結ばれた、唯一の呼び名だった。
「笑えるか。ここが、今の朕の玉座だ。玉座の上では、朕は何も言えぬのだ」
劉備は黙って首を横に振った。
「曹操は奸賊だ。董卓よりも、遥かに狡猾だ。漢は──喰い付くされる。」
劉協の膝が、ゆっくりと折れかけた。
劉備は手を伸ばし、静かに袖を掴んだ。
「陛下、おやめください」
「勅命は、玉座で下すもの。だがここは厠。これは、甥から叔父への願いだ」
それ以上、言葉は続かなかった。
沈黙が落ちた。
劉備は、ただその場にいた。
やがて、ゆっくりと頭を下げ、退がった。
劉協は一人残され、壁に寄りかかった。
枯れていたはずの熱いものが、頰を伝い、音もなく、床に落ちた。
厠の外では、夜警の足音が規則正しく響いていた。
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あの日、共に長安から逃げた董承が来たのは、夜が更けてからだった。
奥の間に跪く。顔を上げない。
「陛下」と呼ぶ声が、わずかに震えていた。
曹操を「あの方」と呼び、名は出さない。丞相とも呼ばない。
ただ、忠臣が次々と消えていることだけを、淡々と告げる。
残された者たちの名の中に、
──劉備の名が、低く置かれていた。
劉協は何も言わない。相槌すら打たない。
沈黙が部屋を満たす。
董承は、それ以上何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと頭を下げ、退がった。
一人になった部屋は、さらに静かになった。
机の上に、紙と筆が置かれている。
誰が置いたのか、考える必要はなかった。
指先を見つめる。
血は、昔から知っていた。
洛陽の床に、長安の道に、逃げた草むらに。
他人の血は、数え切れないほど見てきた。
だが、自分の血は、まだ使ったことがなかった。
劉協は、指の先を噛み切った。
血がにじみ、ぽたりと紙に落ちた。
赤い点が、ゆっくりと広がる。
もう一滴。
筆が血を吸い、文字の色が濃くなる。
筆を握った。
曹操を誅せ。漢室を、救え。
そして、残された忠臣たちの名を連ねた。
最後に、「献帝」ではなく、我が名を記した。
劉協。
──劉。
なんという、呪いの文字だ。
字は、歪んでいた。
涙は流れない。手は震えない。
ただ、血の匂いが、静かに部屋に広がった。
玉帯を手に取る。天子の象徴。
金糸が縫い込まれ、表は輝いている。
その裏側に爪を立て、静かに音を立てて裂いた。
血の乾いた紙を折り、裏に押し込む。
針を取り、糸を通す。
その音だけが、夜に響いた。
厠で膝を折った、声にならぬ声を玉帯の裏に縫い込んだ瞬間、
誰かが死ぬことが決まった。
東の空が、白み始めた。
風は、ここにはまだ通らなかった。
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許都は、何事もなかったかのように朝を迎えた。
宮殿は整然と動き、儀式は滞りなく進む。
劉協は玉座に座し、曹操は忠臣として跪く。
言葉は形式通り、笑みは変わらず。
誰も、何も知らない。
献帝から董承に玉帯が贈られた。
恩賞であり、信任であり、形式だった。
深く頭を下げ、膝をつき、恭しく受け取る。
臣下として当然の所作。
董承は、献帝から直接何も聞かされていない。
ただ帯の裏に縫い込まれた違和感に気づいた。
夜、灯を消した部屋の済で、董承は玉帯の裏を裂いた。
血の文字が現れた。
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数日後。
劉協が詔に連ねたほとんどの忠臣が、一族共に謀反の罪で誅された。
董承は、最後まで剣を握っていたという。
劉協のもとには、ただ報せが届くだけ。
形式の言葉で、淡々と。
劉備は、「徐州の袁術を討つ」という名目で許都を脱出していたと知った。
──殺されなかった。
ただ一人、漢の残り火を継いでくれたのか。
それとも。
劉協は切った指を無意識に押さえた。
曹操が、玉座に近づいてきた。
変わらぬ笑みで、ゆっくりと跪く。
「陛下、何かお困りですかな」




