【献帝編2】逃避行
街の火はやがて、宮殿を蝕むように襲った。
長安の宮殿は、もう宮殿ではなかった。
壁は崩れ、柱は焦げ、廊下には死体が転がり、血と糞と焦げた臭いが混じって空気を腐らせていた。
兵たちは食を失い、街は飢えと略奪に呑まれた。
奥の間にも、飢えは忍び寄ってきた。
劉協は、玉座に座したまま、動かなかった。
供える米は尽き、宦官たちは木の皮を剥ぎ、革靴を煮て差し出した。
劉協はそれを黙って口に運び、噛み、呑み込んだ。
味はなかった。
ただ、生きるための行為だった。
外では、毎夜のように叫び声が上がった。
誰かが殺され、誰かが奪い、誰かが死んだ。
だが劉協は、もう窓の外を見なかった。
見ても、何も変わらないと知っていたから。
やがて、楊奉と韓暹と董承が現れた。
残った忠臣たちだった。
彼らは声を潜め、劉協に跪いた。
「陛下、今なら抜け出せます。外に道が開かれました」
劉協は頷いた。
それだけだった。
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夜陰に紛れて、一行は宮殿を抜け出した。
馬車はなく、劉協は歩いた。
幼い足で、瓦礫を踏み、血溜まりを避け、死体を跨いだ。
兵たちはわずか数百。
飢えた民が道に群がり、食を乞うた。
「陛下……陛下……」
劉協の衣にすがりつく手があった。
兵は剣を振り、切り払った。
血が飛び、叫びが上がった。
劉協は、最後まで目を逸らさなかった。
だからこそ、何も言えなかった。
夜の街を抜け、城門をくぐった。
外は闇だった。
河東へ、河内へ。
道は長く、兵は日ごとに減った。
雨が降り、道は泥になった。
馬は倒れ、荷物は捨てられた。
飢えは深まった。
草を掘り、木の根をかじり、虫を捕まえた。
ある夜、護衛の兵が、震える声を吐いた。
「草も尽き、馬も食い尽くしました。もう……人肉を……」
劉協は何も言わなかった。
目を閉じ、ただ息を一つ吐いた。
それだけで、兵は分かった。
涙は、とうに枯れていた。
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別の朝、追手の蹄の音が響いた。
李傕の残党か、郭汜の軍か。
楊奉が兵を並べた。
矢が飛び、叫びが上がった。
それは、自分を守るための戦いだった。
劉協は小さな土手の陰に身を寄せ、それでも目を逸らさなかった。
血が飛び、人が倒れた。
やがて、音が途切れた。
目を閉じた。
護衛の兵は、また減った。
顔についた味方の血を袖で拭い、劉協は立ち上がった。
歩き続けた。
それが生きるということだった。
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やがて、遠くに軍勢の旗が見えた。
黒い甲冑、整然とした行列。
兄と逃げたあの日、川辺を囲んだ軍勢と重なった。
馬蹄の音が近づき、旗が風にはためく。
「止まれ」
一喝の声で、大軍がぴたりと止まった。
先頭の馬車から、男が降りてきた。
甲冑を纏い、剣を帯び、鋭い目をこちらに向けた。
──曹操だった。




