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籠の中の三国志  作者: ゆう
献帝編
12/17

【献帝編1】「献帝」という呪い

長安の宮殿は、静かだった。

いや、静かすぎた。


董卓が死んでも街の外では叫び声が絶えず、火の手が夜空を焦がし、血の匂いが風に混じって漂ってくる。



董卓の死後、漢室を守ろうと奮闘した王允も、一族と共に斬られた。

そう聞いた。


長安は、董卓が生きていた頃と、何も変わっていなかった。

いや、董卓の閉めていた蓋が開き、むしろ混乱していた。


だが、この奥深い間だけは、まるで別の世界だった。

何も起こらず、ただ幼い天子が玉座に座したまま、窓の外をぼんやりと眺めている。


献帝・劉協。


彼は董卓に囚われたあの日の記憶を、昨日のことのように鮮やかに思い出す。



────────────────────────────



──洛陽の宮殿が、炎に呑まれていた。


大理石の床は冷たかった。

その上を滑るように、温いものが足に絡みついた。

見下ろすと、それが血だと分かった。


九歳の自分──陳留王劉協と、兄の少帝劉弁は、段珪に守られて逃げ出した。


暗い道を走りながら、兄の手を握りしめていた。

背後で火が唸り、煙が肺を灼いた。


小平津の川辺まで辿り着いた時、段珪は自らの剣を喉に突き立てた。


「これ以上、陛下たちをお守りできませぬ……」


二人だけが残された。


草むらに身を潜め、震えながら夜明けを待った。


兄は声を殺して泣いていた。

肩が小刻みに震え、袖が濡れていく。


劉協は兄の袖を握りしめたまま、遠くの炎を見つめていた。


漢の都が焼け落ちる。

先祖の宮殿が崩れていく。


それでも、自分は泣かなかった。

泣いても、何も変わらないと、もう知っていたから。


やがて、馬蹄の音が近づいてきた。


鉄の鎧が月光を浴び、数千の旗が風にはためく。

大軍が川辺を囲んだ。


董卓の軍勢だった。


兄は立ち上がろうとするが膝をつき、顔を青ざめさせた。

唇が震え、言葉にならない。


劉協は兄の前に立ち、董卓を迎えた。


巨躯の男が馬を降り、ゆっくりと近づいてくる。

威圧的な視線が、二人を値踏みするように見下ろす。


「陛下、陳留王殿下、ご無事で何よりだ。乱の様子を聞かせていただこう」


最初に問われたのは兄だった。


兄は何か言おうと口を開いた。

だが喉が鳴っただけで、言葉にならなかった。

ただ涙がこぼれ、嗚咽が漏れるだけ。


董卓の眉が、わずかに動いた。


次に、視線が劉協に向けられた。


「殿下はいかがか」


劉協は董卓を見据え、静かに語り始めた。


「宦官どもが権をほしいままにし、忠臣を害した。袁紹、曹操らがこれを討ち、十常侍は皆殺しにされた。だが火が広がり、宮殿は焼け落ち、私どもは段珪に守られてここまで逃れてきたのだ」


声は震えなかった。


董卓は黙って聞き、ゆっくりと頷いた。


「なるほど。少帝陛下はご心痛のほどだ」


董卓は一度だけ兄を見た。

それから劉協の方を見て、視線を戻さなかった。


あの瞬間、二人の運命が決まった。


籠の中の新しい鳥が、選ばれた。


それから長安への長い道。

董卓は劉協を優しく扱い、兄を遠ざけた。


長安に着くと、やがて少帝は廃され、劉協は献帝となった。


兄は毒を飲まされ、母后も殺された。

劉協だけが、生き残った。


玉座に座り、董卓の隣で笑みを強いられる日々。

漢の新たな天子、献帝として、無力な自分を呪う日々が続いた。




今、長安は再び乱に満ちている。


王允の志も潰え、忠臣は散り、残党が争う。


劉協は奥の間に閉じ込められたまま、窓の外を見つめる。


漢の灯は、まだ消えていない。

だが、風のない籠の中で、いつまで持つか。


剣も牙も持たぬ自分に、できることなどない。


ただ、誰かが来るのを待つしかない。

新しい籠の主が、現れるのを。


幼い天子は、静かに目を閉じた。

涙は、もう枯れていた。


夜は、果てしなく深かった。


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