【貂蝉編5】籠の中の汚れ
董卓の館は、今日も宴に満ちていた。
酒が溢れ、肉が運ばれ、笑い声が天井を揺らす。
灯りが激しく揺れ、館全体が欲の熱に煮え立っていた。
董卓は上座に座し、盃を掲げ、大きな声で笑う。
周囲の将や官僚たちが媚びを売り、侍女たちが体を寄せる。
貂蝉は、その中心にいた。
歌い、舞い、盃を注ぐ。
いつものように、笑みを浮かべつつ、どこか遠くを見ている目で。
呂布は、いつもの位置に立っていた。
董卓の背後。
方天画戟を横に置き、直立不動。
宴は進み、董卓の機嫌は最高潮に達した。
酒が回り、視線が貂蝉に集中する。
やがて、董卓は立ち上がり、声を上げた。
「この女、貂蝉。今日より、わしの側室とする。今夜から、わしの寝所へ連れてこい」
館内が一瞬、静まった。
官僚たちが息を呑み、将たちが視線を逸らす。
誰も、異を唱えない。
董卓の言葉は、絶対だった。
ただ一人。
呂布の視線が、一瞬、貂蝉に留まった。
すぐに戻したが、その瞳に、静かな拒絶が宿っていた。
貂蝉は、静かに頭を垂れた。
──これで、終わりか。
表情は変わらない。
媚びず、怯えず、ただそこにいる。
籠の中の鳥が、運命を受け入れるように。
呂布は、動かなかった。
だが、胸の奥で、何かが軋んだ。
──あの女を、この泥に沈ませるのか。
脳裏に、ふと、あの夜の廊下がよぎった。
薄暗い通路。
風に揺れた袖。
媚びなかった。
ただ、そこにいた。
欲の熱に染まらず、飲み込まれず。
まるで、別の風が吹いているかのように。
董卓が貂蝉を奪えば、それは汚される。
美しく在るものが、ただの所有物になる。
羽を汚され、声すら奪われる。
呂布の指が、わずかに震えた。
方天画戟の柄に、無意識に触れる。
これまで、この力は董卓の機嫌を守るためだけに使われてきた。
殴られても、罵られても、黙って耐えてきた。
なぜなら、斬るべき敵がいなかったから。
守るべきものが、なかったから。
だが今──
守れるものがある。
呂布は、初めて、前に出た。
「待て」
声は低く、静かだった。
だが、館全体を凍りつかせた。
董卓が振り返る。
顔が、ゆっくりと赤くなる。
「何だ、奉先。わしの言葉が聞こえぬか?」
呂布は、再び董卓を見た。
「渡さん」
言葉は、短かった。
董卓の顔が、怒りに歪む。
盃が、床に叩きつけられる。
「貴様、何を言うか! 俺のものを、俺が取るのに、何の異議がある!お前は犬だ!」
これまで何度も聞いた罵声。
これまで何度も耐えてきた屈辱。
だが今は、違う。
方天画戟を握る手が、熱を帯びた。
呂布は、視線を貂蝉に向けた。
一瞬だけ。
貂蝉は、この瞬間も、ただ、そこにいた。
館内が、息を呑む。
誰も、動けない。
方天画戟は軽かった。
呂布は自分の力を、この刹那で思い出すことに、笑った。
方天画戟が、閃いた。
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──同じ刻、
王允は、自らの館で静かに座していた。
香炉の煙が細く立ち上る。
使者が駆け込んできたのは、宴の終わり頃だった。
王允は、静かに耳を傾け、ただ空を仰いだ。
──先帝よ。蒼天よ。
ただ深い、果てしない溜息のようだった。
やはり、曇天は晴れることはなかった。
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館では血が、飛び散った。
董卓の首が、床に転がる。
驚愕の表情を凍りつかせたまま。
呂布は、静かに立ち尽くした。
戟の先から、血が滴る。
──汚い。
館の外では、冷たい風が吹き抜けていた。




