表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
籠の中の三国志  作者: ゆう
貂蝉編
10/17

【貂蝉編4】籠の中の二人

董卓の館での宴は、いつものように終わった。

盃の音が遠ざかり、笑い声が途切れ、灯りが一つずつ消えていく。

残されたのは、散らかった卓と、酒の匂いが染みついた空気だけ。



貂蝉は、他の侍女たちと共に、静かに片付けをしていた。

盃を重ね、楽器を布で包み、床に落ちた花を拾う。

誰にも声をかけられず、誰にも引き留められなかった。


それが、当然のことだった。


片付けが終わり、貂蝉は一人、廊下を歩き始めた。

馬車が待つ門へ向かう道。

夜風が冷たく、衣の裾を揺らす。

廊下の先、灯りの届かない庭に続く通路。


そこを曲がった時だった。


一人の武人が、向こうから歩いてきた。


呂布だった。


月明かりが薄く差し、鎧の輪郭を浮かび上がらせる。

方天画戟は持たず、ただ静かに歩いている。

赤兎馬のいる厩から戻る途中だったのかもしれない。


二人は、すれ違う。


二人の影が、月明かりの下で、ほんの一瞬だけ重なった。


互いに知っている顔ではない。

名を知らない相手。

立ち止まる理由など、どこにもない。


だが、風が吹いた。

貂蝉の袖が、軽く揺れた。


それだけで、呂布の足が止まった。


貂蝉も、自然と足を止めた。


沈黙が落ちる。

気まずさはない。

緊張もない。


ただ、二人の間に、何も起こらない時間が流れるだけ。


やがて、呂布が口を開いた。


「……寒くないか」


声は低く、どこか不器用だった。

宴の喧騒の中で聞く声とは違う。

董卓に話しかける時とも、将たちに命じる時とも違う。


貂蝉は、一瞬だけ目を上げた。

それから、静かに答えた。


「いいえ。慣れていますから」


いつもの笑みではない。

媚びる表情でもない。

ただ、淡々とした、素の顔だった。


呂布は、わずかに頷いた。


「そうか」


それだけ。

また、沈黙。


貂蝉は軽く頭を下げ、立ち去ろうとした。

呂布は、それを引き留めなかった。


ただ、立ち尽くしたまま、去っていく足音を聞いていた。


すれ違いざま、貂蝉はふと思った。


──この人は、見ている。


欲の目ではない。

ただ、ここにいる「自分」を、見ている。

そんな視線を、最後に感じたのはいつだったろう。

誰も自分を見ていないことに、慣れすぎていた。




呂布もまた、背後で遠ざかる足音を聞きながら、思った。


──あの女は、何も求めていない。


この館の女たちのように、笑って媚びることもない。

泣いて怯えることもない。


ただ、そこにいる。



言葉は、それだけだった。

名を告げず、理由を問わず、再会を約束することもなく。


会話と呼ぶには、あまりに短く。

出会いと呼ぶには、あまりに静かだった。


ただそれだけのこと。

何も変わらない夜。


董卓はいびきをかきながら眠り、王允は待つ。

長安の街は、いつも通りの夜を明かす。


風が再び吹き、袖が揺れた。


貂蝉は足を速め、門へと向かった。

呂布は庭へ戻り、赤兎馬の前に立った。


その夜、二人は名を知らぬまま、眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ