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籠の中の三国志  作者: ゆう
1 王允編
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【王允編1】漢の残り火

──霊帝が死に、少帝が即位した189年。


洛陽を焼き払い、献帝を伴って長安へ遷都した董卓。


董卓の西涼軍は、長安の城門を蹴破るように入城すると、たちまち牙を剥いた。


街は炎に呑まれ、男は斬られ、女は犯され、幼児さえ壁に叩きつけられた。金銀は奪い尽くされ、貴族の邸宅も民の粗末な家も焼き払われた。

洛水の流れは赤く染まり、無数の屍が浮かび、烏が群れをなして喰らいても、肉は尽きなかった。


誰一人、声を上げる者はいない。

逆らえば、一族郎党、皆殺し。


首は長安の城門に吊るされ、腐り落ちるまで晒される。


そんな修羅の巷で、静かに涙を噛み殺していた男がいた。


──王允。


彼は漢の忠臣だった。

いや、忠臣でなければならなかった。



祖父の代から続く名門の血筋、司徒の位にありながら、董卓の前では頭を垂れ、笑みを浮かべ、謀反者の血を混ぜた酒を、静かに飲み干す。


それが生き延びる術だった。


だが、心の奥底では、毎夜、漢の滅びゆく姿が焼き付いて離れなかった。


屋敷の奥深く、昼間なのに薄暗い一室で、王允は独り、声を殺して泣いた。

涙は頬を伝い、髭を濡らし、袍の袖に染みた。


妻も子も、側近すら立ち入らせぬその部屋で、王允は独り、天を仰いだ。


──先帝よ。蒼天よ。


声にならぬ叫びは、ただ喉の奥で震えるだけだった。

願いに魔力などない。

厚い雲は動かず、曇天はますます深く、灰色の空が王允の心を押し潰すように覆っていた。


拳を握り締め、爪が掌に食い込み、血がにじんでも、彼は気づかなかった。


──董卓を殺さねば。


その一念だけが、凍てついた胸の奥で、赤い炎となって燃え続けていた。


だが、武力では叶わない。


董卓の傍らに控える呂布は、人中に勇無しと言われる無双の猛将。

方天画戟一振りで百人を薙ぎ払い、赤兎馬に跨れば矢も届かぬ。

正面から挑めば、瞬く間に血祭りだ。


王允は夜を徹して策を練った。


呂布を離反させるか。

外の諸侯を動かすか。

毒を盛るか。暗殺か。


だが、どの糸も指先で撚るうちにほつれ、闇に落ちて消えた。


浮かんだ策は、次々と砕け散り、朝の薄明かりの中で、ただ灰のように虚しく残るだけだった。


思考は空転し、夜は果てしなく長かった。


そんな苦虫を噛み締めるような朝が、幾月も続いた。





ある新月の夜──


空に星一つなく、闇が深く沈み、長安の街が息を潜める夜だった。


王允邸の裏戸が、かすかに、だが確かに叩かれた。

三度、間を置いて、もう三度。


それは、事前に取り決めた合図ではなかった。


王允は眉をひそめ、老いた家令に目配せした。

剣を帯びた数名の家士が、無言で戸に寄り、息を殺す。

訝しく思いながらも、王允は自ら奥の客間へと案内させた。


灯りを落とした部屋に、通された男は一人だった。


黒い袍に身を包み、腰には剣を佩き、顔は半ば影に隠れていた。

だが、その目だけが、闇の中で燃えていた。

赤く、鋭く、獣のように──いや、野火のように。


王允は息を呑んだ。


この男の目は、ただの野心ではない。

そこには、董卓を喰らい尽くさんとする、獣の飢えが宿っていた。


男は深々と礼をし、声を低くして言った。


「司徒殿。夜分、失礼いたします。」


王允は静かに名を問うた。

男はわずかに口元を歪め、答えた。


「曹操。字は孟徳。今は相国の幕下、司空の位にありながら──」


そして、不躾に、しかし迷いなく続けた。


「七星剣を、私にお譲りください。」


部屋に、沈黙が落ちた。


七星剣──


それは先帝から王允に下賜された宝剣。


北斗七星の意匠が柄に刻まれ、刃には宝珠が嵌め込まれた、漢室の威光を象徴する一振りの名剣。


王允は目を細めた。


この男が、何を企てているのか。

一瞬で悟った。


──董卓を、暗殺するつもりだ。


王允の胸に、風が吹き抜けた。


冷たく、鋭く、刃のように──


それは救いの予感か、それとも破滅の前触れか、判別つかぬ風だった。

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