5. シュフォルバルは愛を求めない
「遅いな」
「申し訳ありません」
「その姿は歩きにくいのか?」
「はい、その、靴が高いのと、ドレスが重いので」
「そうか」
しばしの沈黙。
「ゆっくり歩くと良い。自分も合わせる」
「はい、エデュアール様」
「自分の足が早すぎる時は言うように」
「かしこまりました」
また沈黙。
「スザンヌ嬢」
「はい、エデュアール様」
「ルベール・ロシェは、彼の婚約者から婚約を破棄される」
「……え?」
足がもつれかけた。
崩れそうになる体勢をエデュアールが支える。誘導して廊下の脇に寄った。まだ会場に入ってしまうには話さなければいけないことが終わっていない。
「シャロン様が? どうして……」
「君に分かるように言う。ルベールが君と親しくしすぎたせいだ」
「親しく、しすぎ」
「君と令息たち、特にルベール・ロシェとの付き合い方は、普通の友人のやり方ではなかった。周りからは恋人同士と見られただろうし、ルベールもそう思っていたはずだ」
「ルベール様は、お友達だと……私たちには婚約者がいるから恋人ではないと……」
「彼が、まさか君が本当にそれをそのまま受け入れるとは思わなかったのか、君がそういう人間だと分かっていてそう言い聞かせていたのかは分からない」
後者であれば幼子を騙していたずらするかのようで悪辣に過ぎるが、それは想像の域を出ない。
「分かるだろうか。君とルベールが恋人のように親しくしているのを見て、シャロン・ドゥヴェルニエ嬢は傷付いた。悲しい思いをしたのだ」
そうエデュアールが教えた時、今までにない驚愕がスザンヌの体を駆け上った。
慄然と目と口を開き、細かく震え、息をし損ねてひゅうひゅうと妙な音を出す。エデュアールの左腕に添えられていたスザンヌの手袋に包まれた手が宙をさまよい、よろめいて、エデュアールの胸板にすがりつく。
「シャロンさまが」
「スザンヌ嬢?」
控え室で彼女自身が槍玉に挙げられていてもぼんやり感情の薄い様子だったのが、突然これほど強い反応を見せたことにエデュアールは驚く。
「私、わたしが、シャロン様を、悲しくさせてしまったのですか」
「そうだ。シャロン嬢が二年に上がる時に別のクラスに移ったのは、君とルベールの姿を見るのが辛かったからだと彼女の兄から俺も直接聞いた」
「シャロン様がうつむいていたのは私のせいなのです? あんなに笑っていたのが、やめてしまったのは、私のせいなのです? 私が何も言えないみたいに何も言えないお顔になってしまったのは、シャロン様、私のせいなのです!?」
「スザンヌ嬢!」
ぐっと両手で肩を揺する。
恐慌状態のスザンヌはびくりとなって止まった。
「声が高い。落ち着くんだ」
「もうしわけ、ありません……」
「君は、シャロン嬢をどう思っているんだ?」
「シャロン様はすてきな方です。すてきな方でした」
「ああ、いや、聞き方が悪かったか」
「そこだけ明るく光って見えました。小さくて可愛くて、にっこりするんです。最初はルベール様のおそばなら、シャロン様ともお話しできるかしらって、私、なのに、私が、シャロン様を私みたいにさせてしまったの……!?」
支離滅裂な言葉がうわごとのように溢れ出る。
とてつもない無垢な絶望がスザンヌを体の髄まで打ちのめしていた。
エデュアールは生まれて初めて、罪人が罪を知った瞬間に立ち会ったのだ。知らずに罪を重ねていた人間にその事実を知らせれば、これほどの恐怖に打たれるのだと彼は目の当たりにすることになった。
エデュアールには知るよしもないが、スザンヌは感じてはいたのだ。何かおかしいと、肌に伝わる空気の異常を、時折聞こえる話の違和感を、聞き取ってはいたのだ。それが今ぱたぱたとドミノ遊びの駒が倒れていくように絵を描き、ようやく彼女にも理解が及んだ。
「待て」
ふらりとエデュアールの手すら離れて歩き出そうとしたスザンヌの腕を掴んで止める。
「どこへ行く」
「パーティーのホールへ……シャロンさまに、シャロン様」
「会ってどうする」
「ごめんなさいを、私、言わなくては」
「やめておけ」
「今日しかないの。今日でいなくなってしまわれるの! もうお会いできない! ルベールさまと一緒に夜会にもいらっしゃらないなら、今日お会いしないと」
「駄目だ」
なぜ!? と叫ぶようにスザンヌの目がエデュアールを射抜いた。
彼女の目が心を丸ごと吸われるような深く艶やかな漆黒をしていることに彼は婚約してから初めて気付いた。同じ黒い目と呼ばれても彼自身のくすんだようなダークグレーとはかなり異なる色だ。昔の釣書に書かれた赤毛と黒い目という文字の情報だけで彼女を見ていた。
スザンヌは蒼白でもなお美しさに翳りのない顔をして、口をわななかせ、エデュアールの胸板にすがりついて潤んだ目でこちらを見上げている。頬のそばに後毛のように二筋ほどの赤毛が揺れ、その近くの耳元では小粒のダイヤモンドを潤沢に組み合わせた揺れ足の長いイヤリングがしゃらしゃらと震えている。友誼の証としてドゥヴェルニエから買い入れたものを、少しの嫌味もあって彼女の飾りに使わせていた。
「スザンヌ嬢」
白痴のようで、会話が成り立たず、いてもいなくても自分の邪魔をして、煩わしいばかりの己の婚約者を、まともに見たこともなかったのだとエデュアールは今日何度目か分からない苦い気付きを噛み締めた。
「駄目だ」
強くゆっくり繰り返す。
剣を柄まで差し込むように深くその目を覗き込んで。
黒曜石の眼球は廊下の燭台の灯火を受けてゆらゆら輝き、ぶわりと涙を膨れ上がらせる。
「どうして、エデュアール様。どうしてだめなのですか」
ありうべからざる非道を受けたかのように哀切に、人魚の歌うような声を出す。
紅を塗った唇ははちきれんばかりの艶を帯びていた。
誰もが認めるほど、確かにこの娘は美しい。
そして、思っていたように、どうしようもなく足りていなくて、賢くなくて、ただ、うっすらと当たり前に思い込んでいたような下劣な人間ではなかった。
「シャロン嬢は」
スザンヌが長めの家名を覚えるのが苦手なのでエデュアールは直接交友もないシャロンのことを敢えてそう表現する。
「君を見るだけで嫌な気持ちになる」
ああ、とも、うう、ともつかないうめき声がスザンヌの喉からこぼれ、ぎゅうとエデュアールのシャツを握りしめる手の強さが彼女の感じる痛みの強さを伝えてきた。
「散々悲しい思いをした相手の気持ちを考えず、君の心を楽にするのを優先するわけにはいかない。会場で、あちらから近付いて話しかけてくれた場合にだけ、会話を許す。だが俺が謝って良いと言うまでは謝ることも禁じる。間違った時に謝罪を口にしたら、シャロン嬢はそれを屈辱的に……恥ずかしく腹立たしいと思うだろう」
「ああ、ああ」
首を振るとスザンヌのまなじりから涙が散った。
「ごめんなさい……ごめんなさい、シャロンさま……どうして……ごめんなさい……私が……」
懺悔を耳に、少しの間人通りのない廊下の一角で彼は彼女が落ち着くのを待つ。泣くことは良くないことと教育された娘だから、それ以上は涙をこぼす失態もしなかった。
これほど嘆いていても、この娘はおそらく、シャロンの心情は理解できない。
自分がその令嬢を苦しめたという事実を知っただけで飽和してしまい、不貞を見せつけられた相手がなぜ悲しい思いをするかの仕組みは分からないだろう。
このまま言葉だけ謝罪させてしまうと、ようやく長い三年間に幕を下ろそうとしている面々の神経を逆撫ですることになりかねない。
「スザンヌ嬢。聞きなさい。君は決して自分から離れないように」
「……はい、エデュアール様」
「ルベール・ロシェと話してもいけない。彼の目を見ないようにして、顔が目に入ったら違う場所か少し下を見ろ」
「はい」
「自分が君の側にいる」
「…………?」
「君の代わりに人を見て、君がなるべく分かるように話をする。人は君が思うより簡単に人にひどいことができる。もっと訓練すれば君も立ち回りが分かるかもしれないが、今は難しい。今日は俺が……失礼、私があなたの盾になる」
「エデュアール、さま?」
「子を成すことを重視することは、言葉は違えど、我が家が君の家に伝えてきたことだ。愛情や家族の情を必ずしも重視しないことも。忠誠があれば良く、愛情はなくて良いと思っていた。自分が君を愛することは未来永劫ないだろうと考えていた。君から愛されようとも考えていなかった。それを君の母君は知っていた」
長い話についていけなくなってきて、スザンヌの目がぼんやり混乱している。おろおろ狼狽えて、ただ、今までの前提と何か違うことが起こっているのもある程度分かるようだった。真剣に目を見れば、エデュアールでも、スザンヌの心が少しだけ読み取れる。
「スザンヌ。シュフォルバルの家門に愛はなくても良い」
「はい」
「だが、愛があっても構わないんだ」
「…………え、と?」
「あなたを愛せるか、今はまだ分からない。だが、俺たちはもう少し、仲良くなろうとするのは、どうだろうか」
呆然とスザンヌは婚約者を見上げた。
背が高く肩幅のあるいかつい武人のエデュアールは真剣で、睨みつけるような眼光を放っている。
怖い人、お仕えする人、尊い人。昔から会うと最初の方に不自由はないかと質問して、ないとスザンヌが答えるとそうかと言って黙ってしまう人。
仲良くなろうとしても、良いのだろうか。
返事が口から出せなくて、ぽろりと、違う言葉が転がり落ちる。
「ダンスは、エデュアール様と、踊れるのでしょうか」
若い軍人は生真面目に頷いた。
「踊ろう。この後すぐ」
「結婚した後は」
「結婚した後も、ずっと」
よく教育されたはずのスザンヌは、なぜかそこでひどく泣けてしまって、教師の教えをぐちゃぐちゃにしてしまった。涙を流してしまったし、しゃくりあげてしまったし、鼻まですすってしまった。
「はい。はい、エデュアール様、はい……!」
御意の言葉を繰り返したのも、決して、そう教えられたからではなくなっていた。
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