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2. ルベールという名のお友達

 どのようにしてその関係が始まったのか、スザンヌはよく分からない。


 赤毛の多い西の地方の踊り子の血が入っているのではないかとも揶揄される肉感的な美女である母親の血を色濃く継いだスザンヌは、実年齢のわずかな先取りも加わって、同年代の中では際立って色香のある娘だ。


 頻繁に彼らの方を見ていたスザンヌをルベールは最初から自分のものだと思い込んでいて、泳ぎの上手い蛇のようにスザンヌにぬるぬるするりと接近し、自信たっぷりに彼女を口説いた。


 ルベールは童話の王子様のように振る舞った。

 スザンヌの髪を褒め、瞳を褒め、指先を褒め、服を褒め、歌を褒めた。

 彼の言葉や態度はいつもシンプルで分かりやすく、意味の取りにくい話が少ない。


 何よりスザンヌが夢中になったのは、一緒にいるとルベールが様々な質問をしてくれることだ。好きな花は何か、行ってみたい場所はどこか、最近欲しいものに会ったことのある人、お気に入りのアクセサリー、週末の草競馬の賭けの結果。

 ルベールは楽しげに軽やかに問いを投げ、期待の笑みを口元にたたえてスザンヌが返答に唇を動かすのを今かと待ち構える。自分だけに向けられる興味は眩暈がするほどに甘美で、そして、ああ、なんということだろう、スザンヌは、ルベールの質問であれば答えることができる自分を知ったのだ。数分も話すと誰もが眉をひそめて話を切り上げようとして、ゆるりと会話の輪からはずされるあのスザンヌが。


 長らく水中から人の言葉を聞くような思いで生活していたスザンヌには突如世界に虹が現れたような感覚だった。


「ねえ、ルベール様、お花がとっても綺麗よ」

「本当だ。ダリアの仲間かな。スザンヌ嬢は知ってる?」

「何を?」

「花の名前さ」

「知らないわ」

「興味ないの?」

「興味…ないのかしら」


 ぱちぱち瞬きするとルベールが朗らかに笑って、周りの生徒も笑う。

 ルベールは道をはずれて花壇に近付き、畝二列分に並んで咲かされたオレンジや赤の花の中から特に赤いものを折り取った。そんなことをして良いと知らなかったスザンヌは目を丸くする。


「『その名がなんだと言うのだろう。どの名で呼ぼうと同じ甘さで香るのに』」


 作ったような気取った言い方をしてスザンヌに向き合い、片足を引いて腹あたりに軽く左腕を上げる。すっと腰を落としたボウ・アンド・スクレイプ。そこから差し出す一輪の花。


 ぶわりと胸が熱くなった。

 何が起きているのだろう。胸がどきどきして握りしめた手が震えてしまう。視界と世界の真ん中にルベールがいて、うやうやしく顔を伏せてスザンヌが花を受け取るのを待っている。

 ひゅーっと口笛を吹くような囃し声が聞こえていたが意識には届かなかった。


「スザンヌ嬢ー、戻ってきてー」

「ほら、受け取ってやって」

「ルベールが待ちぼうけしてるよ」


 突っ立っていたら口々に言われて、おそるおそるスザンヌは手を伸ばした。


「早く早く」


 かたかた震える手がなんとか届きそうになった時。

 花の茎を摘んだままのルベールの右手が揺れてスザンヌの指先と触れる。びくりと腕を引こうとした時、ルベールは逆の左手で素早くスザンヌの手首をレースの手袋の上から握り、視線を上げる。


 彼がかがめていた体を起こせば互いの距離は想像よりもずっと近付いていて、掴まれた手に花が握らされたのが感触で伝わってきた。


(つかまえた)


 耳元でささやかれたその言葉が麻縄で雁字搦めにしたかのようにスザンヌの動きと思考を封じて、全身の皮膚が痺れるようなびりびりした感覚に縛られた。



 * * *



「あら、まあ、スザンヌったら」


 話を聞いても母親はのんびりしたものだった。


「ロシェと、お相手は確かドゥヴェルニエでしょう。どちらも大したことのない伯爵家だわ。シュフォルバル家の寄子のヴァレリやミッターにも及ばないのではなくて?」


 スザンヌの家は、元々は子爵家だった。

 それがエデュアールとの婚約と、あと難しいいくつかの話が重なって、伯爵家に引き上げられた。子爵家だった頃の苗字と伯爵家になってからの苗字が異なり、ただ昔の名前も生きているらしいのでどう名乗って良いのか未だにスザンヌは自信がない。


 それでも伯爵家とは名ばかりであまり実態が伴わず、世の中での扱いもそれに近いものだ。由緒があり領地の豊かさも知られたドゥヴェルニエ家と新興だが堅調に政財界へ存在感を示してきたロシェ家を見下すことなどとてもできないはずなのだが、ここにはそれを指摘できる者がいなかった。


「今のうちに殿方のお付き合いを覚えておくのは良いことだわ。結婚した後、誰もいなくてはあなたも寂しいでしょう」

「結婚した後、ですか、お母さま」

「ええ。お友達はいいものよ、スザンヌ。大人のパーティーだって一人ぼっちなのはとてもつまらないの。踊りに誘ってくださる方はいくらいてもいいわ。でもね、気を付けて。決して肌は許さないこと」


「肌は、許さない」


 また難しい言い方だ。


「肌に触ってはいけない、ということ、ですか」

「あら。ううーん、そうねぇ」


 母親は困った顔で笑う。


「そうね、それでいいわ。シュフォルバルは貞淑にとても厳しいもの。その方が簡単で安全でしょう。スザンヌ、あなたは、殿方の肌を触れたり、触れられたりしないようにしなさい。それから人前で脱いでいいのはショールやコートまでよ。手袋はだめ」


 手袋は駄目、と素直にスザンヌは繰り返す。


「あと、あなたは大切な婚約者がいるのだから、どんなに仲が良い方も恋人と呼んではだめよ。あなたが作って良いのはお友達。エデュアール様に失礼がないようにして、ルベール・ロシェの婚約者の顔もちゃんと立てなさい」


 顔を立てる。失礼がないようにする。

 分からなくてスザンヌは考え込む。答えは「はい」でなくてはいけないのは知っているけれど、どうしろと言われているのか分からない。


「あの、お母さま」

「なあに?」

「私、ルベール様の婚約者の、シャロン様が、とてもすてきだと思うんです」

「まあ、そうなの。良い方なのね」

「お話ししたことは、あまり、なくて」


 あの、だから。

 もじもじと何かを言おうとするのだけど、分からなくて、目をさまよわせて、また時間切れになってしまう。

 元から母親はスザンヌの様子を大して気にしていない。

 すぐに自分の話に戻った。


「お母さまの言いつけを守ってね、スザンヌ。そうしたらあちらも下位貴族同士での交流に差し出口をされたりはしないでしょう。シュフォルバルの家は、あなたに愛は求めていないわ」


 愛は求めていない。

 その言葉も意味はさだかに分からなかったが、何か重たいものが喉の奥を塞いで息が苦しくなったような気がした。





「純潔さえ守っていれば、それでよろしい」


「……失礼?」


「かのご令嬢の学園での様子は報告させている。ロシェ家のご子息も最低限の境界線は理解しておいでのようだ。今のところ我が家門から何かということは考えておりませんな」


 その返答にアレン・ドゥヴェルニエはわずかばかり目を大きくせずにいられなかった。

 迎賓館のシガールームでかねてより探していた人物を親子で見つけ、人を伝って紹介を受けた。シュフォルバル侯爵家当主とその三男のエデュアールである。


 しばらく軽い雑談をしていると、用件を察していたらしいエデュアールの方から彼の婚約者(スザンヌ)アレンの妹(シャロン)についての話題を振られた。

 そこで話すうち、当主の口から飛び出したのがこの発言である。


 驚いて当事者のエデュアールを見ると、革張りのソファの上でも背もたれを使わずまっすぐに座っているその若き武人は、口元に持っていたシェリー酒の小さなグラスを傍らのテーブルに置いてからアレンの目を見て頷いた。


「望めるなら、信頼し合い、支え合える婚約者であれば良いとは自分も思っていた」

「望めるなら…ですか」

「ああ。だが、聞いていたよりも……、あれはなんと言ったら良いか、会話のしにくい娘で、歩み寄りにもいささか疲れてしまったんだ」


 エデュアールの肩にはすでに勲章がある。

 面長に鷲鼻でかっちりとした顔立ちに、困惑のような頭痛のような苦い色合いが浮いている。


「次男坊、三男坊の集まった身軽な男たちの輪の中にいると耳にし、目にもしたので(ただ)してみたが、どれもあくまで友人で肌も許していないというようなことを申し述べた」


「それは、また、ずいぶんと直接的な……」


 アレンは唖然とした。

 疑いをかけられたとしても、令嬢が自分から口にする言葉ではない。


 侯爵家の令息の顔をまじまじ見れば、苦虫を噛み潰したような顔で見返され、それがエデュアールにとって婚約者への配慮の気持ちをごっそりと奪っていった決定的な出来事だったらしいことが察せられた。


「アレン殿、ご助言のつもりで申し上げるが、妹御のことで対応を考えておられるならスザンヌ嬢に遠回しな話は不向きだと知り置くと良い。母や教師も教育に苦慮している。自分としては最終学年で人脈を確かにしたい気のあるところに彼女が入ると私もいささかやりにくいのだ。自分の邪魔をせず、別の者たちと楽しく過ごしてくれるのであればその方が手間がない」


「我が家は多少、魔術的な素養のある子の生まれやすい家系でしてな。武門であることもあり、多産で、魔力耐性の強い者を昔から優先して娶っておる。あのご令嬢は家も手頃でその条件をよく満たすのだ」


 息子の言葉に続けて、円形に配置された別のソファからシュフォルバルの当主があけすけな事情をそう話した。赤ワインがほとんど飲まれて空に近付いたチューリップ型のグラスをアレンに向かって揺らしてみせ、アレンが頷くと片手を上げる。控えの従僕が当主のグラスにワインを注ぎ、アレンにも新しいグラスでなみなみと提供した。


「家政も社交も任せる頭がないのは残念だがね。心根が従順ではあるし見目も良い。他の息子の嫁はまあまあ粒揃いだ。子を成した後は他の孫と合わせて養育すれば良かろう」


「……別の花をお探しになるご予定はないと」


「左様」


「無論、これから二年のあの者たちの振る舞いによっては私も考えることはある。自分で『おともだち』と言うのだ。その枠を超えなければ彼らと同じ日に卒業するくらいはできるだろう」


 愛情がなくとも貴族の結婚は成り立つ。

 それがよく見える事例だった。


「ドゥヴェルニエのご家中で何かお考えがあればお話は承るが」


 無表情に近い様子でエデュアールがアレンを見た。

 アレンは暫時思考をめぐらせる。


「そちらにはそちらのお立場があろう。シュフォルバルも、よく励まれている可愛らしいお嬢さんに火の粉を払うなとまで言う気はないのだ」

「卒業後はおそらく挙式の前から別邸に入れて外に出さないことになる。その時期を早めることを希望なさるか?」


 あれには最早修めるべき学びも少なかろう、と言葉の辛辣さと繋がらない機嫌の良い声で当主が言い添えた。


「……いえ」


 アレンは結論を出す。

 シュフォルバルの意向としては、別段スザンヌを守るつもりもないが、結婚に連なる予定帳の書き換えをする手間は煩わしいといったあたりと見られた。幼いシャロンにルベールの手綱を取るようにと求めてこないだけ寛容である。


「私どもの事情までお汲みいただき大変ありがたく存じます。ただドゥヴェルニエは吹けば飛ぶような小さな家です。私も妹も、高き皆様(シュフォルバル家)にお返しできるものもございません」

「なんの、そのようなことをお気にされる必要はない」

「それにですね」


 侯爵へ(おもね)るための演技ではなく、心から皮肉な笑い方になった。


「あの小僧、スザンヌ嬢を引き剥がしたところで女遊びから抜けられるのかと疑わしく」


 そう言えば、ほう、と親子が瞬きする。

 アレンやシャロンの視野にはまずルベールが入ってくるが、シュフォルバルの人間にはそこまで強い関心がなかっただろう。


「我が家の立場では、妹が心を荒らされるのであれば相手がスザンヌ嬢でもそうでなくとも変わりがないのです」


「なるほど?」


 本人が気持ちを変えるのではなく外からの力でスザンヌを取り上げても、一度裏切りを見たシャロンの心が昔に戻るわけもないし、別の女に走られても、何事もなかったような顔をされても、慌てて関係修復に走られても、どう転んだってそれはそれで不愉快だ。


「妹は近頃、婚約誓約書をしばしば読み直しております。彼らの学園在籍はこれから二年と三ヶ月ほど。妹の許嫁が御前とエデュアール殿のお心を煩わせないのであれば、今少しは様子を見ようと考えます」


「ふむ」


 侯爵は呟き、自家の三男をちらりと眺めた。


「ここで卿にお会いできたのは我らも幸運でありましたな。このエデュアールも後わずかで卒業で、学内に目配りも利かなくなる。妹御を通じて学園の様子などがお耳に入れば、また折の良い時にお話などしたいものだ」


 それは二年からのスザンヌの様子を探る目となれという意味でもあり、この件については今後も連絡を取ってきて構わないという許可でもある。どうせ子飼いは各学年にいるのだろうから、後者のニュアンスが強いと見られる。


「大変光栄です、閣下」


 アレンは恭しく頭を下げた。




この世界にロミオとジュリエットはありませんが、類似の戯曲と思っていただければ。


エデュアールの一人称に「自分」が混ざるのは軍の言葉遣いの癖です。

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スザンヌは知的障害がありますよね。ルベールに目をつけられてしまったことが不憫でならない。ルベールとクラスメイトたちがもっと酷い目に遭いますように。 肉感的でおっとりした美人で頭が悪い。貴族で良かったの…
[良い点] ざまあ系のお話の悪女的な役割の女の子が主人公のお話で、ここまで素敵に書かれたものに初めて出会いました。スザンヌもエデュアールも好きになりました。
[良い点] なんだか痛ましい… 大学受験に失敗して専門学校に通っていた頃、隣に座っていたものすごくケバいのに頭は全くよろしくなかった方に簿記のとっかかりを教えたのだけど、すごく素直でピュアな方で向学…
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