1. スザンヌという娘
別作品「ゆっくり嫌いになりました」の続編です。
【ご注意】前作から自然と思い浮かべていただくような「ざまあ」ではなく、環境に恵まれないスザンヌの不幸に寄り添う内容となります。すっきりしない気持ちになる・前作の読後感を損なう可能性があります。
(スカっと爽快悪役退治にはなりません。ごめんなさい)
問題なさそうな場合はお読みいただけますと幸いです。
その部屋には人間と同じ大きさのトルソーがあり、トルソーにはどっしりと深い臙脂色のドレスが着付けられていた。
見事な仕立てで、ずいぶん値の張る拵えだろう。
暖炉の前に敷く厚手の絨毯みたいに立派だとスザンヌは思った。すごく重たそうなのである。
「卒業式の後、祝賀会用に着替えが終わったら、そのまま部屋を出ずに待つようにとのことです」
少し待つ。
シュフォルバル侯爵家の執事はそれ以上口を開かず、慇懃にスザンヌを見返した。
「はい」
スザンヌは返事をした。
まだ相手は待っている様子がある。
「承りました、とお伝えください」
誰にと返事を指定したら良いのか分からなかったので、誰にとも言わずにふわっとした感じで言えば、その対応で正解だったらしく執事はかすかに頷いてから頭を下げて出ていった。
着替えの部屋で待っていろと言ったのは誰なのだろう。
婚約者のエデュアール・シュフォルバルか、その母親の侯爵夫人か。侯爵様本人はスザンヌのことに時間を使ったりしないだろう。
待っていたらどうなるのか、それも言われなかった。
その時になれば分かるのだろう。
ドレスに少し近付いてみる。
本物の金箔を使っている金糸で、無数のつるバラの絡み合う重厚な刺繍が足もとへ下がるほど過密にびっしりと縫い込まれていた。
「絨毯みたい」
誰もいない部屋でぽつりとスザンヌは言った。
* * *
「あなたは侯爵家に嫁がれるので、王族の方にお目通りがあることもあるでしょう。もしもお声を賜った場合は、今のように『でも』や『いいえ』でお答えしてはなりません」
行儀指導のために婚約者の家で用意された教師はそう教えた。
「でも先生」
「尊き方々は、誤ったことはおっしゃいません」
スザンヌは舌の上に出ていた言葉を飲み込まされる。
「まずは『はい』とお答えしなさい。たとえば雨の日に良い天気ですねと言われたら、『はい、妃殿下。庭の薔薇が雨に濡れていかにも美しゅうございます』というように。もし許されるご様子であれば、その後に晴れの日も好ましいとか、ご自分の言葉を続けても良いでしょう」
スザンヌは黙ってしまった。雨の日にそんなことを言われてそんな返事が思いつくだろうか。何も言わずにぼうっとしている彼女の様子を見て、教師は小さくため息をこぼし、閉じた扇を手のひらで撫でた。
「そうですね。難しいようでしたら、はいとお答えしたら黙って頭を下げて顔を上げないようになさればよろしいでしょう。先ほどの晴れの日も良いといった自分の意見を奏上することは、今はお控えなさい。高貴なお方とのおめもじに、あなたお一人のこともないはず。まずはそこから始めて、段々慣れていかれるとよろしいわ」
「でも……」
「今のお話を聞いていらっしゃいましたか?」
「…………はい、先生」
学園への通学が認められたのはスザンヌが十七の頃だった。そうだと思うのだが、入学すると十六歳になったばかりということになっていた。
「学園は十六歳で入るものでしょう? 女の子なのに周りの殿方よりも年上ではスザンヌがかわいそうだものね」
絹のように輝く豊かで鮮やかな色合いの赤毛をスザンヌにも遺伝させてくれた母親は、入学式で、参列に付き添ってくれた叔父のジャンに向かって何か話していた。
何歳とは決まっていないが、初等教育は済ませておくように求められるのと、その後に望む進路の兼ね合いで、多くの生徒が十五歳か十六歳での入学に落ち着くのは事実である。
「昔の書類に間違いがあったみたいなの」
うふふと母親が扇の下で笑っている。
四人の子がいるとは見えない美貌は母の自慢で、それを引き継いだスザンヌのことも嫌ってはいない。たまに不要になったアクセサリーや外出先で気に入って買ったものを与えてくれる。
スザンヌは十六歳だったらしいので、お誕生日会では間違えないように気を付けなくてはならないだろう。
(なんて可愛い方かしら)
学園での生活で、先にスザンヌの意識を引いたのはルベールではなくシャロンだった。
金色と茶色の中間のような色からふわふわして見えるやわらかい髪の毛に、あまり手を入れていないようなのにぱっちりした目元をして、ほっぺたも唇もふくふくした赤ちゃんのようだった。
まだ幼い顔で、体付きも小柄で、胸も尻もすとんとしているのを真新しい制服が包んでいる。お菓子みたいに可愛らしい少女だ。
聞けば、スザンヌとも同じ伯爵家の令嬢らしい。良いも悪いもあまり評判がないらしく、長女のシャロンが若くして学園入学を果たしたこと自体がニュースと言えばニュースのようだった。
(小さくて可愛いわ。目がくりくりしてる)
彼女の隣には絵に描いたような貴族の令息がいた。
金髪で身綺麗にしていて物腰が柔らかい。他の男子生徒と輪を作っていることが多く、社交や遊びが好きな様子だ。
二人はよくお互いににこにこと笑いかけていて、立つ時も座る時もなんとなく近くにいる。仲の良い知り合いなのだと目に見えて分かった。
(あ)
令息の方が、人が動くのに合わせて、シャロンを庇う位置に少しだけ体をずらした。自分の胸板を使って他の生徒の流れが少女に影響しないように守っている。
ぽっと少女の頬に赤みが差した。
恋をしているのだと一目で伝わるような幸せな顔。
殿方より年上ではない方が良いとスザンヌの母が言っていたのはこういうことなのかもしれない。
スザンヌの婚約者のエデュアールは今三年生に在籍していて、年は二十だ。彼は逆にしばらく軍属で学んだ期間があるため入学が他より遅めとなった。彼らの婚約はスザンヌが当時の数え方で十三、エデュアールが十六の頃に整えられ、軍に入ると見合いに割く時間もなくなるということでその前にという雰囲気でぱたぱたと決められた。
お互いに好きも嫌いもない婚約だったが、こう考えると、スザンヌの方が三歳年下なのは良かったのだろう。四歳差になってもっと可愛く見えて喜ぶだろうか。
入学式の日、エデュアールはスザンヌに学園内を案内し、ランチの場を設けて彼の学友を紹介してくれた。彼の同級生たちはスザンヌを美人だと口々に褒めてくれたが、エデュアールはそれにスザンヌの代わりに礼を言ってそつなく対応するばかりで、彼自身はどうかと尋ねたら、問題ないと答えられた。
スザンヌは人と話す時、何か食い違うというか、うまく話が読み取れないことがあるのだが、婚約者にはよくそういう気持ちを感じた。
ただ、学園内で困ったことがあれば自分を頼ると良いと言ってくれたのはとても心強かった。
嬉しくなって入学翌日から三年のクラスを訪れたところ、数日すると、あまり来なくて良いと言われてしまった。何が悪かったのか分からなかったが、彼らはよく難しい話をしていて、ぼんやりした女が同席すると邪魔だったのかもしれない。
「君も自分の学年で交流を広めていくといい」
はい、エデュアール様。
(可愛い方)
スザンヌは教室でよくシャロンを見ていた。
なぜか目が引きつけられるのだ。笑顔が春のように暖かくて、声まで華奢だ。
彼らから漏れ聞こえる声から、彼女がいつも一緒にいる相手はルベールという名で、二人が婚約者同士なのだと分かってくる。あちらもスザンヌとエデュアールと同じように、男子生徒の友達の輪に年下の少女が加わっている形だが、スザンヌと違って追い出されることはないらしい。同学年だからだろうか。
(嬉しそう)
あの子も私も、違いはないはずなのに。
婚約者の隣にいるだけでどうしてあんなに嬉しそうにしていられるのだろう。
じっと見ていると、不意に、視線を感じたらしいシャロンの婚約者がこちらを見た。
ばちり、と、目が合う。
ほんの少しだけ垂れ目がちでよく梳かした金色の髪と糊の利いた金ボタンのシャツを着ていて、とてもよく整ったきれいな男の子だ。友人たちと笑い合っていた表情が半端に残って、笑っているような驚いているような様子をしている。
スザンヌのエデュアールは背が高く肩幅があって、屋外の訓練で日焼けがちで、鷲鼻で厳しい顔つきで威圧感があるが、シャロンのルベールはそれとまったく異なる、優しくハンサムな風采だった。エデュアールの生家シュフォルバル侯爵家が治める領のひとつでは軍馬の生産が盛んだが、エデュアールなら強い馬を選ぶところで、ルベールなら美しい馬を選ぶのだろうとなんとなく思った。
スザンヌとシャロン。
年上の婚約者を持つ令嬢二人。
自分たち自身に違いがないとすれば、その違いは、たとえば、婚約者の違いなのだろうか。
ルベールが隣にいれば、スザンヌも、シャロンみたいに笑えるのだろうか。
――スザンヌは少し、言葉が上手でない。
彼女は、「羨ましい」も「寂しい」も、「憧れ」も「苦しい」も、自らのこととして認識できる言語能力を持ってはいなかった。
いいなぁ、という、そんな言葉さえ知らなくて