拾参ノ伍 安永とフェノエレーゼ、一時休戦
翼を取り戻したフェノエレーゼは、安永の庵に降り立ちました。
冬囲いを施された庭木、屋根の下にも雪よけの板がはられています。
まだフェノエレーゼが烏だった頃の森の面影はみじんもなくて、胸が痛みます。
フェノエレーゼの来訪に気づき、政信が庵から出てきました。両手を広げて飛びつこうとしてきたので、額に扇を叩き込みます。
「ああああぁフェノエレーゼさん! もしやワタクシの想いに応えてくれる気に────」
「くだらんこと言ってないでお前の師を出せ。ヒナが熱を出して倒れたんだ。解熱の薬が欲しい」
政信の求愛を無視して、要件だけ伝えます。ヒナが熱を出している。それを聞いて、政信も居住まいを正しました。
すぐに安永のもとに案内してくれます。
政信についていった先は書庫でした。
山のように積まれた巻物の真ん中で、安永は広げた巻物を読んでいました。
政信の後ろにいるフェノエレーゼに気づくと、眉を寄せます。
「……呪が解けたのか。あと十年はかかるだろうと思っていたが、外れたな。それで、何の用だ。ナギは一緒ではないのか」
「ヒナが熱を出して倒れたんだ。お前なら解熱薬も調薬できるだろう」
唐突な頼みに、安永は怪訝そうに首を傾けます。
「何もお前がここまで来ずとも、近くに村があるだろうに。そこに行けば医師も居よう」
「……近くに三河の村があったんだが、村人たちは“馬魔なんか助けない”と激高して。話をまともに聞いてくれる様子ではなかった」
思い出しても腹が立ち、フェノエレーゼは舌打ちしてしまいます。政信はヒナが追われた理由に思い至ったようで、口を挟みます。
「馬魔というのは、赤い衣をまとう女の妖怪です。人間には害がないが、馬に穴を開けて殺してしまうのです」
「どうりで、厩があるのに馬がいないわけだ」
「ヒナさんは赤い着物を着ていて、しかも童女だ。村人たちは、姿形が似ているから馬魔に違いないと思い込んだ。彼らは、商売道具である馬を台無しにされたから恨みも深いのでしょう」
恨む相手に似ているだけで、人間の童女にすら石を投げる。なんと身勝手なのだろうか。フェノエレーゼはやるせない思いで拳を固めます。
「ヒナはただの無力な童なのに。なぜヒナが馬魔だなんて言われなければならない」
うつむくフェノエレーゼの横顔に、安永は問いかけます。
「笛之絵麗世命。お前は、その村人たちを殺したいと思うか? 村人たちはヒナを迫害して見殺しにしようとしている。恨むか?」
「奴らのことなどどうでもいい。今はヒナの薬が必要、それだけだ」
一瞬の迷いもなく返された答えを聞いて、安永は巻物を結び腰を上げました。
「いいだろう。ここで待て。今のお前の心根に免じて、解熱薬を調合してやる。お前のことは嫌いだが、あの娘は無関係だからな」
「……私もお前のことは嫌いだが、今回だけは恩に着る」
互いに顔を見合わせ、不服そうに眉根をゆがめます。
一時休戦、といったところでしょうか。
フェノエレーゼも安永も、互いのことは嫌いでも、ヒナの命がかかっているときに意地をはったりはしませんでした。
半刻ほどして、薬を作った安永が戻ってきました。
小さな巾着袋に調合した丸薬を入れて、フェノエレーゼに託します。
「一日二回。白湯か水で飲ませろ。二日もすれば平常に戻るはずだ」
「わかった」
薬を手に、フェノエレーゼは空へ飛び立ちます。
すぐに行くから、あと少し、あと少しだけ我慢してくれ。薬の入った巾着袋を握りしめて、フェノエレーゼは三河へ急ぎました。