拾参ノ肆 愛の心
フェノエレーゼが安永のもとに飛んで薬の調合を頼むしかない。そう言われ、フェノエレーゼは迷わず答えました。
「わかった。あいつのことが嫌いだと言っている場合ではない。あいつに頼るしかないなら、行く。そこの村にもう一度行くよりは建設的だろう」
「術が師匠の庵から帰路まで持つ保証はできません。それでも、いいですか」
確かめるナギに、フェノエレーゼはうなずきます。
『チチチチ、ほんとうにあの陰陽師さんのとこに着けるでさ? これまで四半刻も持った試しがないでさ』
ナギとの契約で翼を戻す、それは雀の言うようにほんの一時的で、長くは持ちません。
いつもなら止に入るヒナが熱でずっとうなされているので、雀は言葉を選びません。
「ケンカを売っているのか雀」
『チチィ! ケンカでなくて、事実でさ! 途中で落ちたら、旦那はケガ程度で済むけど、嬢ちゃんは薬がないと危ないっさ!!』
「黙れ。今の私ではあやかしの里に渡れない。渡れたとしても、呪を完全に解けとサルタヒコに言いに行く間なんてないんだ。無理だろうとなんだろうと、今ある方法を試すしかない」
普段なら苛立ち殴り飛ばすところですが、フェノエレーゼは淡々と返します。ただ、ヒナを助けなければならない、その一心でした。
「笛之絵麗世命、我に仕えよ。我が名はナギ。ここに主従の楔を結ぶ」
「我、笛之絵麗世命。其方にこの命預けよう」
ナギが己の指先を切り、フェノエレーゼがその血を口に含む。
光に包まれ、フェノエレーゼの背中から空に向かってのびる一対の白い翼が現れます。
「必ず戻る。それまで、持ちこたえろ。……任せたぞ、ナギ」
「はい。フェノエレーゼさんが薬を持って戻ること、信じています」
うなされるヒナに一声かけ、フェノエレーゼは大空へと飛び立ちました。
色づいた木の葉もほとんど散ってしまった山々を見下ろして、空をかけます。
土浦家の庵がある森を目指して北上しました。二百余年前にフェノエレーゼの家族がいた森、今は安永が治める森。
あと少し、というとき背中に激痛を覚え、フェノエレーゼは唇をかみました。背に幾度も刃物を突き立てるような痛みが押し寄せます。
これまでのときと同じ、ナギがくれたかりそめの術が、呪に蝕まれる。
翼が消えそうになり、フェノエレーゼはそれでも翼を動かしました。
無情にも翼は霧となって消え、フェノエレーゼの体は大地へと落ちていきます。
「そんな、まだ」
二百年、ずっと、復讐のために飛んできた。人間を滅ぼすために生きていました。
誰も必要とせず、ただ心を憎しみで満たして飛んでいました。
けれどフェノエレーゼは今、ヒナを助けるために、翼がほしいと心から願いました。
フェノエレーゼの手助けをしたいと言ってついてきた、無垢な幼子のために。
フェノエレーゼが地に落ちたとき、足を折ったとき、絡新婦に捕らわれたとき。
ヒナはいつだって、フェノエレーゼを助けようと手を差し伸べて来ました。
そしてナギも。
はじめは反発しあいましたが、今は背中を託せる相手です。
共に旅をするようになり、過去の罪を悔いるなら償ってほしいと、フェノエレーゼ自身を見てくれるようになりました。
ナギの存在もまた、フェノエレーゼにはかけがえのないものになっていました。
今でも家族を奪った人間のことは許せないし、すべての人間を好きになることはできない。けれど、ヒナとナギのことは信じてそばにいたいと思いました。
とべない天狗とひなの旅がはじまらなければ、ヒナの同行を許さずただ一人で旅をしていたなら、このかりそめの翼すら得られなかった。
森の中に落ちて、背中を刺すような痛みにおそわれても、フェノエレーゼは真っ直ぐに空を見上げ、翼が欲しいと願いました。
「サルタヒコの呪なんて知ったことか。私はもう、とべない天狗なんかじゃない!」
太陽に負けないほどの光がほとばしり、フェノエレーゼの体を蝕んでいた呪が消滅しました。
そして背中から、フェノエレーゼの本来の翼が広がります。真白で大きな翼が。
一瞬、起きたことが信じられなくて目を見張りましたが、フェノエレーゼはすぐ翼に力を込め、再び空に舞い上がりました。
必ず薬を持って戻る、約束を果たすために。