拾壱ノ捌 違う命、同じ想い
ヒナの姿が見えなくなり、ナギは濃霧に取り巻かれました。自分の腕もまともに見えないほど視界が悪く、がらにもなく舌打ちしてしまいます。
「ヒナさん! ああ、くそ、これが絡新婦のナワバリの中か。本当に何も見えない。絡新婦の狙いがおれなら、あの子に何もないといいが」
『きゅい! 気をつけてくださいまし、主様! 来ます!』
耳元でオーサキが鳴き、ナギは神経を研ぎ澄ませるための略式術を唱えます。
「六根清浄、急急如律令!」
ナギを取り巻いていた霧が薄まります。
カサカサと蜘蛛の足音を立てながら、絡新婦が現れます。女に似せた飾りを乗せて、八本の蜘蛛足で木々の間を這ってきます。
「あらいい男。そんな危ないものを持って、いけない人ね。手放しなさいな。ここにはよく人が迷い込むの。夜道は危ないから、わたくしの家で休んでお行きなさい」
「バケモノに気を許すつもりなど毛頭ない。臨・兵・闘・者・皆・陣・烈……」
指を刀に見立て、横縦に宙を切り、印を結びます。
その振り上げた手に、蜘蛛糸が絡みつく。
絡新婦は一本、また一本と糸を吐き、徐々にナギとの距離をつめます。
「おいたしちゃダメじゃない、坊や」
「くそっ」
『主様を放しなさい! こんな糸、あたしがかみきってやる!』
オーサキがナギの手に飛び移って糸に噛みつくけれど、びくともしません。
はらりと、ナギの左腕をおおっていた布がほどけ、鬼の腕があらわになります。
「鬼の腕が……。そう。アナタ半妖なのねぇ! ふふふっ。わたくしをバケモノと呼ぶなんて酷いじゃなあい。アナタも人間とあやかしが混じったバケモノ。わたくしたち妖怪の同族だというのに」
『この虫! あたしの主様を、あんたみたいなのと一緒にすんじゃない……きゃあ!』
「オーサキ!」
オーサキが糸の塊にされて地面に転がります。刀を抜くため伸ばした鬼の手も、糸にとらわれました。
「ほらほら、半妖の陰陽師さん、術を使わないの? 使えるものなら使ってみなさいよ。無理でしょうけど。おとなしくわたくしのごちそうに」
自分の有利を確信して、絡新婦は挑発します。
「はん。蜘蛛ごときが偉そうに。虫けらは虫けららしく、蛾でも食ってろ」
「誰!?」
絡新婦があたりをみまわすと、強風が吹き荒れます。風は渦巻く竜巻となり、辺り一帯をおおっていた霧を完全に吹き飛ばしました。ナギをとらえていた糸も散ります。
「ナギ、無事か」
「助かりました。フェノエレーゼさん」
「礼など要らん。雀。そこの白いミノムシを持って村に戻れ。今は役に立たん」
足元のジタバタ動くミノムシから苦情があがります。
『ちょっとおおお!! 誰が、ミノムシよ!! あたしが役に立たないですってえ!?』
『チチチチ。雀使いのあらいお人でさー。でもオサキギツネはミノムシになってるから、言われてもしかたないっさ』
『きゅい! あとで覚えてなさいよあんたらぁぁあ!!!』
敵が目の前にいて、瞬きの間も惜しいくらいの今、糸の塊から頭と尻尾しか出ていないオーサキを取り出すのは命取りでしょう。
雀はあしでオーサキに絡まる糸を掴んで飛んでいきます。
幻覚の効果を持つ霧を飛ばされ、絡新婦は悔しさと怒りで木々を震わせるほどわめきます。
「おのれえええ!! よくもよくもよくもよくもおおおぉ!!!!」
苦しまぎれに糸を吐いても、ナギの前に立ちはだかるフェノエレーゼがことごとくカマイタチで切り裂いていきます。
「今のうちにやれ」
「はい! 臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前。吐普加身依身多女、寒言神尊利根陀見、波羅伊玉意喜餘目出玉!」
ナギが高らかに術を唱え、札を投げる。
祓呪の直撃をくらい、絡新婦はもがき苦しみ、地面をのたうち回ります。
「ぐぁああ、がぅあああ!! こ、の、半妖め、なぜ、人間に肩入れする。ぉまえとて、バケモノ、妖怪だというに」
「うるさい黙れ」
フェノエレーゼはナギの刀を素早く抜き、わめく絡新婦の目に突き刺す。刀の根本がつくまで深くえぐると、断末魔の悲鳴をあげ、絡新婦は絶命しました。
「バカめ。あやかしの血を引くというだけで、勝手にお前のようなカスと同種にするな。お前とナギの格は天地の差がある」
ナギは目の奥が熱くなるのを感じました。フェノエレーゼはいつでも本音で生きているから、下手ななぐさめや気休めなど言いません。
手ぬぐいで乱暴に刀を拭い、ナギに刀を返してきます。
「宗近の刀はよく切れるな」
「貴女の翼が戻ったら、いつかお礼を言いにいかないといけませんね。この刀には何度も助けられている」
「…………ナギも、最後までついてくるつもりなんだな」
ヒナは最初から、フェノエレーゼの翼を取り戻す手伝いという目的で旅に同行していました。
ナギは師から見識を広めろと言われて旅をしているだけで、フェノエレーゼと同じ道でなくても問題ないはずです。
それでも一緒に来るのだと思うと、フェノエレーゼは不思議とあたたかな気持ちになりました。
「お前たちは変わっているな。この森に入ってきたこともだが、私を助けても、ナギにもヒナにも得などないのに。里の妖怪たちですら、私を煙たがって近寄ってこなかったのに」
複雑そうな笑みを浮かべるフェノエレーゼに、ナギは手を差し伸べます。人前に晒すのが嫌でしかたなかった鬼の手を。
「それは貴女もですよ。おれを助けても、貴女は得しないでしょう。人が、人を助けるとはそういうものです。損得勘定ではない。貴女が大切だからです」
言われたとおり、これまでもナギやヒナを助けようと思い動いたのは、打算もなにもありません。
ただただ、助けたい、その一心でした。
誰かを助けるのなんて、翼を取り戻すための……サルタヒコのごきけん取りでしかないと、思っていたのに。
そっと、ナギの鬼の手を取ります。爪が尖り、人の色ではない手を握り、自分のほほにみちびきました。空いた右手を、ナギのほほに当てます。
「え、ええと、フェノエレーゼさん?」
真白な手で触れられ、気恥ずかしくてほほが熱を持ちます。人間と大差ない、あたたかな手のひらです。
「なにも、違わないのだな。私たちは」
泣いているような、微笑んでいるような。少し震えた声で言います。ナギは、ナギのほほに触れるフェノエレーゼの手に重ねます。
「ええ。あやかしも、半妖も、人間も。おれたちは誰かを想う心を持っている」
虫や野鳥たちの鳴き声だけが響く、静かな夜の森に、声がとけていきます。抱擁するでもなく、愛を囁くでもなく、二人はただただ、黙ってそうしていました。
体に刻まれた呪の印が薄れたとフェノエレーゼが気づくのは、もう少しあとのこと。