閑話 感情の名前
政信の故郷の村を発って半月。
人の世では霊峰と名高い富士は、神の山ということで立ち入ることを固く禁じられています。なので、フェノエレーゼたちは富士を回り込むようにして、南西を目指しています。
日差しが強くかなりの暑さなため、日が傾くまで泉のほとりで休息を取ることにしました。
木陰に荷物をおいて、ナギとフェノエレーゼはそのまま木の下に腰を下ろします。
「ねえねえ、フエノさん。丸ちゃんたちと遊んできていい?」
「好きにしろ。だが、日が陰ったら出発するのだから、歩く体力は温存しておけ」
「はーい!」
ヒナは浅瀬に走り、着物の裾を器用に持ち上げて、雀やタビたちとはしゃいでいます。
とくにタビは毛が黒いので、熱を吸ってカイロのようです。水を得た魚のごとく、幸せそうに泳いでいます。オーサキもタビに乗ったまま、水面の旅をマンキツしているようです。
「今のうちに、おれたちも休憩しましょう。たまには式神にも息抜きは必要ですから」
「やれやれ……お前は本当に甘いな」
「おれらしさを大事にしろと言ったのは貴女でしょう」
ナギがクスクスと笑い、フェノエレーゼは隣に目をやって、肩をすくめます。
翼を封じられてしまうまで、フェノエレーゼにとっての感情は怒りと憎しみ二つだけでした。
家族を奪われた怒り。
帰る場所を奪った人間への憎しみ。
けれど最近はそれ以外の知らない感情が胸にあり、もどかしい気持ちでした。
今だって、毛嫌いしていたはずの陰陽師が隣にいるのに、嫌悪どころか、安心を覚えているのです。
水浴びを楽しむヒナと式神を眺めるナギの横顔は、とても穏やか。
「だいぶ、髪が伸びたな」
フェノエレーゼはスッと、ナギの黒髪に指を滑らせます。昨年の秋にバッサリ切った髪は、今では耳と首筋が隠れるくらいの長さになっていました。
他人に興味を抱かず、名前もまともに覚えようとしてこなかったフェノエレーゼですから、ナギの髪の変化に気づくのはかなりの進歩でしょう。
髪に触れる行動に深い意味がないとわかっていても、ナギは落ち着かなくて、ほほをほてらせます。
「酒呑を憎んだ過去と決別する、だったか。あの頃と今で、変わったか?」
「ええ。気持ちの問題ですが。幼い頃のように、心底酒呑童子が憎いというような、深い闇の感情はもうありません。この腕のせいで捨てられたので、鬼の血を好きにはなれない気持ちなのは、まだ変わっていませんけれど」
「私も髪を切ったら、なにか変わるか?」
そう、ナギは憎しみにとらわれてきた過去と決別して、今を生きるために髪を切りました。
もしかしたら、とナギはフェノエレーゼに問いかけます。
「フェノエレーゼさんは、変わりたいんですか?」
「…………わからない。だから、知りたいだけだ。私の中にある感情の名前を。愛情、というものを知らないと、私は翼を取り戻せない。愛とは、どういう感情を指す?」
憎しみの過去を断ち切るために髪を切って、ナギは変わりました。だから、自分も同じことをすればなにか変わるかと、ほんの少しだけ、考えたのです。
人間が大嫌いで、悪くて悪くて仕方がなかったのに。今は人間のヒナ、半分は人間のナギとともに旅をしているのです。
二人とともにいて胸に宿る気持ちは、憎悪や怒りとはまったく違う、どこかあたたかい。
「……愛情にも、種類があると思います。力になりたい、守りたい。一緒にいたい、愛されたい、必要とされたい、必要とする。そばに要られるだけで安らぐ、誰にも渡したくない、そう思う気持ち。ときには紙一重で憎しみにもなりえる、危ういものでもある」
ナギひとことひとことは噛みしめるように言って、紫と黒、左右異なる色の瞳にフェノエレーゼが映ります。
「焦らずとも、貴女は貴女のままで、いいと思います。こうしてゆっくり自分の気持ちと向き合っていけば、いつか自ずとわかります。それでもなにか変化を求めるなら、これをどうぞ」
ナギは、前に自分が使っていた髪紐で、フェノエレーゼの髪をうなじのやや上で結います。
「貴女が健やかであるよう、まじないをかけておきました」
そう言って、穏やかに微笑みます。
ただ髪を結んだだけ、なのに。胸のつかえが取れたような気がします。
名前のわからない感情は、わからないのに決して不快なものではありません。
「いつか、この気持ちの名前がわかるだろうか」
フェノエレーゼは髪を結ぶ紐に触れて、ふっと笑いました。
閑話 感情の名前 了