8.闇の中から(sideラスティウス/後編)
「おや、お休みになれませんかの?」
居間へ行ったラスティウスは、家主である老人に迎えられた。
外に続く扉を開けて入ってきた老人は帽子や厚手の外套を脱ぎ、壁にかけていく。
「ご老人は外出されていたのか?」
「日課の見回りです。せっかく森から出られたものがいても、獣に喰われては哀れですからの」
「……なるほどな」
森番の役割を果たしていたのだろう。
「ふぅむ。寝つけないようでしたら、おいぼれと茶でもいかがですかな。眠る前に一服する習慣でしてのぉ」
「すまない」
「いえいえ、ありがたいことです。いつもは一人さびしくやっておりますんで」
老人は手際よく湯を沸かす。
昼間とはまた違う香りの茶葉が準備された。
「……あなたさまは本当に、エルフを恨んでおられないのですかな?」
ティーポットに湯を注ぎながら、老人は不意に言った。
「……どういう意味だ?」
「エルフは美しく、いにしえの叡智を持ち、そして決して人間と相容れぬ種族です……善も悪もありません。ただ違いすぎるのです」
老人はスプーンで茶葉をかき混ぜる。
「そう……エルフの里へ入ろうとした人間も、皆が皆、悪人ではなかった。もちろん欲深いのもおりましたが。世界樹の枝は、ひとかけらでも万病を癒やすと言われておりますゆえ、病を得た妻子や親のためにと、一縷の望みをかけて挑んだものも多かった」
香ばしい湯気がふわりと立ち上り、スプーンが引き上げられた。
「森の魔法は、そういうものでも容赦しませぬ。なまじ思い詰めておるからヨミガエリになりやすい。何年も経って帰ってきたところで、救いたかった相手の顔も忘れ……その相手もまた、とうに手遅れになっておる」
老人は茶器を引き寄せ、温かな香草茶を注ぎ入れる。
「それも彼等にとっては、束の間の出来事なのでしょうなぁ。悪さした子供の尻を叩いて一晩、物置に閉じ込めておく……その程度の仕置きに過ぎんのです。そんなエルフが里を閉ざして百二十年以上が経ち、人間のうちで彼等の恐ろしさを伝えられるものは、このおいぼれを含めて一握りになってしもうた」
ぽたり、と最後のひと滴が、ティーポットの注ぎ口から落ちた。
茶器の中に、さざなみが立って消える。
「あなたさまのご事情は存じませぬ。ですが本当に恨まない、後悔しないと言えるかどうか」
「…………」
ラスティウスは黙したまま、茶器を手に取った。
世界樹の枝を与えたいような相手が、自分にもいたのだろうか。
この老人の目を盗んでエルフの森へ踏み入り、ヨミガエリの報いを受けたのだろうか……?
もう一人の自分に訊いてみたがーー「彼」の答えはなかった。
しかし、とラスティウスは思う。
「彼女は……私のために力を尽くしてくれた」
「さようですのぉ。エルフには珍しいお嬢さんでしょうな。実に清らかで優しい。そして大変に危うい」
「危うい……」
「エルフは同族を傷つけられれば必ず報復する、これも有名ではありますがの。先程も申しました通り、もはや骨身に染みて知っておる人間が少ない。ちぃとぐらい構わんだろう、と考えるものが大半でしょう。優美なエルフの女性です、街へ行けば強引にでも欲しがられましょうな。そこがなんとも危うい」
「私は……彼女に同行すべきだろうか。せめて人間の世界にいる間だけでも」
「さぁて。お嬢さんには軽い気晴らしでも、十年、二十年とかかるやもしれませんで。あなたさま次第でしょうなぁ」
老人は茶を啜った。
ラスティウスも少し冷めてきたそれを口にし、老人に礼を言って部屋へ戻った。
⭐︎⭐︎⭐︎
「ヨミガエリ、か」
ベッドへ腰かけて、ラスティウスは思考の海に沈んだ。
自分が今のようになった原因は恐らく、エルフがかけた森の魔法。
ラスティウスにも帰りを待つものがいたかもしれない。
そして既に手遅れなのかもしれない。
そう聞かされても、奇妙なほど怒りも憎しみも湧いてこない。
負の感情さえ奪われてしまったのだろうか。
あるいはーー
誰も、いないのか。
そう考えると、もう一人の「彼」がうなずいたように思われた。
ーーそうだ、誰もいない。
全て置いてきてしまった。
「彼」はたいてい静かだが、時折こうして答えてくれることもある。
では、なにも未練がないのか?
問いかけると「彼」は黙っていたが、しばらくして小さく応じた。
ーーフレスベルという国が、今もまだあるなら……
そうか。
どうすべきかは決まったようだ。
ようやく眠りの気配が訪れたので、ラスティウスは寝具の中へもぐり込んだ。
あとは明日、彼女に訊いてみよう。
エルフにとっては、ほんのひとときだったとしても。
リューエルが、共に行くと言ってくれれば。
答えは一つだけだ。
⭐︎次回からリューエルの話に戻ります。




