7.闇の中から(sideラスティウス/前編)
長い、長い時間を凍てつく暗黒の中で過ごした。
それ以外の記憶は朧気だ。
誰かがいたような気もするが、ずっと一人だったような気もする。
かろうじて意識を取り戻したとき、深い森の中にいた。
身体が動かなかったーーというより動かし方をそもそも覚えていなかったので、茫然と座り込んだままそこにいた。
生きものがみんな、自分を遠巻きにしているのが感じられる。
相容れぬ異質な存在を恐れているのだ。
だが、近づいてくるものがいた。
そのことに気付いたのは多分、魔力に過敏になっていたからだ。凄い能力でもなんでもない。
相手の気配は、ある地点からフッと途絶え、森に同化して進んできた。
見事なものだ。
最初から勘づいていたのでなければ、絶対に分からなかっただろう。
あやふやな記憶の片隅で、もう一人の自分がささやいた。
あれはきっとエルフだ、と。
森の半身とも呼ばれる、美しき種族。
そのエルフらしき何者かは、ためらいなく接近する。
そして、ほんの少しだけこちらの様子をうかがった後、樹々の間から姿を現した。
少女のように見えるエルフだった。
エルフとしては年若くても、人間で言えば恐らく百歳は超えているか。
だが子供かと思うほど無邪気に歩み寄ってくる。
薄紅色をした瞳の中に、見知らぬ男が映っていた。
それが自分自身だ、と遅ればせながら悟ったのは、少女が正面に立ち、視界いっぱいに顔を寄せてきたときだ。
瑞々しい生命力と純粋な好奇心が、匂い立つように彼女から押し寄せた。
距離が近い。
警戒心というものはないのか。
「ねえ、あなた誰? どうして此処にいるの?」
澄んだ声で訊かれた。
(私の名前……か)
名前を尋ねられている。
答えようとして舌が強張った。
ーー分からない。
どこを探しても出てこない。
しかしそのとき、再び脳裏で、もう一人の自分が声を上げた。
『他のことは忘れても構わない。だから、どんな形でもいい、これだけは覚えておいてくれ。僕の名前はーー』
その意志に従って、名乗った。
「ーーラスティウスだ」
⭐︎⭐︎⭐︎
森の外までエルフの少女、リューエルが連れて行ってくれることになった。
彼女は軽快な足取りで進んでいく。
一方のラスティウスは、身体の使い方を思い出したばかり。道らしき道もない森の中を歩くのは難しく、ずいぶんと無様をさらした。
後で考えれば彼は魔道士だったはずだから、魔法を使えばよかったのだが、思いつかなかった。
親を刷り込まれた雛鳥のように、ひたすら彼女についていこうとしーー何度も転んでは助けられた。
「人間って不器用だね」
完全な足手まといだったが、彼女はむしろ楽しそうだった。
起き上がったラスティウスのそばに屈んで、髪や服についた葉を取ってくれる。
「秋だから落ち葉がいっぱい。あ、ミズベハナザクラの葉! 運がいいよ、凄く綺麗に紅葉してる」
枯れかかった落ち葉でさえ、彼女は宝物のように扱った。
「この樹は春に咲く花が素敵なんだけど、わたしは葉も気に入ってるんだ。ほら、葉脈の入り方がおしゃれでしょ?」
木の葉の一枚がつままれて、目の前でぴらぴらと左右に振られる。
ラスティウスに葉脈の良し悪しなど判断できない。
だが。
「そうだな、綺麗だ」
否定はしなかった。
紅く透ける葉の向こうで、エルフの少女が晴れやかに笑っていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
エルフの森を抜けた。
少なくともリューエルはそう言った。
だが、誰か他の人間に出会うまでは、リューエルが案内をしてほしいーー。
ラスティウスはそう頼んだ。
一人で森を抜けられる気がしなかったのは事実だ。
同時に、リューエルと離れるのが惜しい、とも思った。
知らないものだらけの深い森で、頼りにできるのは彼女しかいなかったのだから……
もっとも、その依頼が半日かからず実現するとは思っていなかった。
森番だという老人がいたのだ。もっとも、確実に会えるとは限らなかったそうだが。
そしてラスティウスは、自分がヨミガエリと呼ばれるものであるらしい、と知った。
なるほど、と彼自身は納得したがリューエルは元気をなくしてしまい、あてがわれた部屋へうつむいたまま入っていったのだった。
(彼女のせいではないのだが……)
もしリューエルが来なければーー自分は未だあの森の奥にいて、枯れ木のように朽ちていくばかりであったと思う。
ベッドの上で寝返りを打った。
歩き疲れているはずが、眠れない。
森の中にいたときの方が、寝つきはよかった。
無防備に眠るリューエルが隣にいたからだろうか。
森が子守歌を歌ってくれる、と彼女は言って外套にくるまり、すぅすぅと寝息を立てていたものだ。
ラスティウスの肩へ頭を預けて。
不吉に響く葉擦れの音も、フクロウの啼き声も、彼女は怖くないらしい。
それから得体の知れない人間の男が横にいるのも。
無論、森でエルフに勝てるものなどいない。
加えてラスティウスは森の魔法によって人間らしい情動や欲求の大半を持って行かれたためか、そこまで邪な気持ちも起きずに済んでいた。
とは言え限度がある。
(エルフというのは、他種族への警戒心が強いものではなかったか?)
変わったエルフだ。
しかし彼女が安心しきって眠っているからこそラスティウスも眠れていたのだ、という事実に、今になって気付いてしまった。
(だめだな、これは。水でも一杯もらおう)
諦めて静かに起き上がり、なるべく音を立てずに部屋を出た。