Chapter.3‐1
夏が来ていた。
この頃、彼女が語学に興味を抱いたことを受け、英語を教える試みをしていた。最初に関心を持ったのは、私の母語である日本語だったが、教えるには苦労すると踏んで英語を提案した。英語はルーマニア語と同じくラテン系言語の流れを汲んでいるため、学習に適しているだろうというのもあった。
彼女が提案を了承してからというもの、英語の勉強が始まった。毎日飽きもせず単語と文法の記憶に努めるルサリィは、私が夕方を過ぎて私室に帰ってからも復習をしているという。学習に打ち込む姿を見ていると、もし学校に通えていたなら優秀な生徒だったろう、というほど熱心さが見てとれた。その対価なのか、上達には目を見張るものがあった。
およそ一ヶ月にして、彼女は日本の高校生程度の学習レベルである英会話をものにしていた。その喜びようは見ていて微笑ましいものだった。はやい会話では言葉に詰まるが、ちょっとした要求を互いに伝えたり話したりするには十分だ。私達はまるで二人だけの合言葉のように英語を使い、八月の半ばに入る頃には挨拶は英語でするという不思議なルールも出来上がっていた。簡単な言葉だけれど、私とルサリィだけの、言葉。私は、彼女の部屋という小さな空間で幸せを噛み締めていた。
そんなある日、彼女は思わぬ行動に出た。
いつものように面会を終え明日の約束もした私はパイプ椅子から立ち上がり、彼女に「帰るよ」と伝えた。その途端、ベッドに座っている彼女が引きとめる。白衣の裾を掴み、こちらを見上げているので、思わず首を傾げた。
「ルサリィ?」
腰を軽く曲げて、なるべく同じ目線になって様子を覗き込もうとすると、彼女は感情の読み取りにくい表情でじっとこちらを見つめていた。再び「ルサリィ」と呼んでみる。その声に反応した彼女は、何か言いたげな視線を向けた。少しばかり詰め寄ると、「ケイジ」と小さな声を出した。
「ルサリィ、一体……」
どうしたんだい? という言葉は消えた。私の唇に、彼女のそれが触れている。しかし、すぐに離れてしまった。急なことに、自身の鼓動が高鳴る。
ベッドに綺麗に座りなおしたルサリィは赤い頬を隠さずに、微笑んでいた。
「ケイジ、また明日ね」
最近は恒例だった英語での挨拶も、この日は慣れ親しんだルーマニア語で返された。
それからどうやって私室に戻ったのかは、あまり記憶していない。彼女の別れの挨拶の後、彼女に何と言って部屋を出たのかも思い出せない。
つまるところ、私は舞い上がっていた。二十代も後半の、大の男がそれくらいで浮かれるのもどうかと思うが、わずかなキスでも彼女としたのだという事実に、言い知れない高揚感に包まれていた。
自身が彼女へ向ける感情はどんなものなのか、自覚はしている。だが今までそれを言葉にしたことも彼女に伝えたこともない。それなのに、彼女は私と同じ気持ちを抱いているのを示すかのように、キスを贈ってくれたのだ。
がらにもなく、明日どんな顔をして会おうかと頬が緩みかけたが、口元を引き結ぶ。高揚の名残のなか適度な緊張に身を任せて、その夜、残った仕事に取りかかった。