Chapter.2‐2
寒さのせいか、ルサリィは昨年末から体調を崩していた。ルーマニアの冬は気温が低い。日中も平均して零下二、三度である。しかし寒冷の国というのは、その土地にあった暖房設備が昔から整っているので、建物内は長袖を着用していれば別段寒くもない。
だが、体が弱いわけでもないが強くもない彼女には、冬の温度変化に体がこたえたようだった。一月末になっても、彼女の体調は全快といえない状態だ。日中は普段のように元気な姿を見せるが、夕方にはそれもなくなる。動作が緩慢になり、口数も減って表情もぼうっとする。微熱を出す時もあった。
昼間は元気なのでその時間帯は雑談をし、夕方に検温や血圧測定等を行い彼女のそばにいる。最近では夕食を共にとり、それから私室に戻るといった感じで一日のサイクルが出来上がっていた。
それから気付けば二月三月と、あっと言う間に過ぎていき、四月を迎えていた。
日本では陽気な春の日差しに包まれる季節がすでに到来しているだろうが、ルーマニアでも若干の肌寒さはありつつも、だんだんと温かくなり過ごしやすくなっていた。
ルサリィもこの頃には元気な姿を見せ、よく敷地内の庭を二人で散歩した。場所が場所であるので、軍人の気配を背後に感じることは、しばしばある。あからさまに近くで監視はしないが、私達の一挙手一投足に注意を払っているのは明白だ。
今まで監視の目に気味悪がっても、どこかで仕事の内容ゆえに仕方ないと諦めていた。勤務から半年以上が経過した頃には、彼らに対して特に何の疑問も持たなくなっていた。要するに、慣れたのである。日常として受け止めたから、気にもしなくなったのだ。だが最近、気にならなくなったはずの監視がまた私の何かを刺激していた。
ルサリィと過ごす時間のうち、彼女の部屋では確実に二人きりだ。なのに、部屋を出て庭を一緒に散歩するだけで、軍人の目が私達を追っている。すると、不思議にも今まで感じたことのない感情を持つようになった。
――彼女との時間を邪魔しないでくれ、と。
不可解な気分だった。ルサリィのことだ。五月も半ば、相変わらず彼女との交流は続き、ステロイド投与による身体の状態も特記することなく良好であった。彼女の体調にも大した変化がないため、経過観察も毎日同じ文言が繰り返されるだけになってきている。
そうして緩やかに過ごしていた六月の末あたり、彼女は冬以来の異変を起こした。くしくもそれが、自分がルサリィに向けている気持ちが一体何なのか、その一部を知る機会となった。
「ケイジ、ケイジ」と熱に浮かされて何度も、譫言のように私の名前を繰り返す彼女。
彼女がそうして繰り返す度に、私は得も言われぬ気持ちになった。様々な感情がない交ぜになって、私を刺激しては心に渦巻いている。それは研究者と実験体という言葉では済まないような、牧圭司としての私的な感情が生まれたのだった。彼女に抱いたそれは最初、父性としての愛着であると自己分析していた。
しかし体調を崩した彼女に付きっきりになって数日、そんな言葉で片付くものではなかったことに困惑をきたした。「ケイジ」と呼ぶ声に戸惑い、彼女の病態に心を痛めながらも、どこかで喜んでいる自分がいたのである。
彼女が呼ぶのは私の名前だけだ、という事実に私は軽率にも喜んでいた。
私は、彼女を一人の人間として、一人の哀れな子供として……一人の女性として、いつの間にか彼女の姿を捉えていた。
「ケイジ、ケイジ」
そう言ってベッドに沈む彼女は苦しそうに荒く息を乱し、片手を浮遊させている。
さまよう手。何かを探している手。
これはきっと自惚れなどではなく、私を求めてなのかもしれない。
ベッドの横にあったパイプ椅子から床に直接座り込んだ私は、彼女の華奢な手を自身の両手で包み込んだ。
「……大丈夫、ここにいるよ」
ここは地獄でも楽園でもない。ただの、現実だ。
孤児の収容所。ここには、その現実しかない。
だけど。ただ、私は。
「ルサリィ。君が望めば、私はここにいる」
……彼女が安らげる場所を、現実に作ってやりたかっただけなのだ。