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Maria  作者: おでき
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Chapter.2‐1

 私がここに来ておよそ四ヶ月。年は替わり、一九八九年の一月を迎えていた。

 今日もルサリィに会いに行った帰り、私室用の建物の一階玄関付近で後ろから声をかけられた。

「ミスター・マキ。レポート、読んだかい?」

 その声に振り向けば、厚手のコートに身を包んでいるドクター・ペトレスクがいた。確か今日は他の研究所に出向すると言っていたので、その帰りだろう。

「ああ、おかえりなさい。レポート……他の研究所のですか? まだですが」

 私の答えに「そうか」と上機嫌な調子で返すと、玄関口からこちらに歩いてきた彼はコートを脱ぎながら私の横に並んだ。

「外は寒いぞ。コーヒーを淹れるか酒でも飲むか、さてどうしよう」

 その楽しげな声に苦笑すると、「付き合ってくれ」と彼は豪快に笑い、私室へ誘ってくれた。

 彼の部屋に向かう途中、ドクター・ペトレスクが先ほどまで出向いていた研究所の話をした。偶然にも、私をルーマニアに誘った教授の勤務先だった。

「君が助手をしていたという、彼のレポートを読んだが、なかなか面白かったよ」

 ドクター・ペトレスクの言う彼とは、もちろん教授である。

「ついでに会って話を聞いてきた」

「そうですか。レポートを読んだら、ここの研究者達で討議の機会を設けましょうか」

 その提案に大いに賛成した彼に、私は教授のことを尋ねてみた。

「お元気そうでしたか?」

 言っていると、彼の部屋に着いた。背広の内ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込んだドクター・ペトレスクは、私の問いに笑顔を浮かべた。

「寒い寒いと言われるくせに、若い連中と所内を動き回っていたよ」

 思わずその姿を想像する。なんとも教授らしい。

「なら、相変わらずのようですね」

 私は笑って言った。

「機会があれば、マフラーでもプレゼントしたらどうだい?」

 ドクター・ペトレスクは、ドアを開けて室内に招いてくれた。

 研究者の私室というのは、安価なホテルかマンションのようなつくりだ。入って廊下を少し進むと、右側のドアの先にはリビングとして使える広めのベッドルーム、簡易のキッチンがあり、廊下を挟んで左側のドアにはバスルームがある。左側には奥にもう一つドアがあり、そこは書斎のようになっていた。ドクター・ペトレスクも恐らくそうだろうが、私も、研究資料やら何やらをそこに詰め込んで、仕事用として使っている。

 彼に案内されて、右側のドアの方の部屋に入る。奥にベッドがあるのが見えた。手前はリビングスペースのようだ。目の前にあるソファを勧めた彼は「コーヒーでいいかい?」と声をかけてくる。私は「どうも」と頭を下げて、ゆったりとソファに腰を下ろした。

 キッチンへと向かった彼の背中を見送り、足を組んで息を深く静かに吐く。頭の中は、話題に出た教授のことで占められていた。教授がどうされているか心配だったが、ドクター・ペトレスクの話ではお元気そうなのでひとまず安心する。ここ四ヶ月、全く教授と接点がなかったので様子がさっぱり分からなかったのだ。それもこれも、連絡が容易に出来ないせいである。研究所間の連絡は、上層部を通して行われていた。個人的な付き合いにはそのつど許可もいる。連絡ひとつとっても、盗聴の可能性があるので好ましいものでない。残るはドクター・ペトレスクのように研究所へ赴き、意見交換のついでに会話するくらいであるが、それでも後ろから軍人が付き添うので、会話の内容は筒抜けになる。自身の勤務する研究所内だとそこまで監視はないが、ひとたび敷地外に出ると軍人に張り付かれるのが、今ここにいる研究者達の現状だった。

 教授のことを思い出していると、辺りに独特の香りが漂ってきた。ドクター・ペトレスクがコーヒーカップを二客持って現われる。

「待たせたね」

 彼はソファの前にあるテーブルにカップを置いた。

「いいえ」と言った私の前に差し出される一客のカップからは、湯気が立っている。

 ソファと対角上にある椅子に座った彼は足を組み、手に取ったカップに少し口をつけてから話を始めた。

「ソ連にいた頃は紅茶をよく飲んでいたよ」

「ああ、サモワールでしたっけ?」

 サモワールはソ連の湯沸かし器だ。調度品の域にまで達し、装飾性のあるものまで存在している。茶葉を入れたポットをサモワールの上に置き、そこで温めつつ渋めに紅茶を煮出し、サモワールの湯を入れて薄めるのだ。

「そうそう。それで小皿に自家製ジャムを入れてね、スプーンで掬ったそれを少しずつ舐めて、紅茶と一緒に頂くのさ」

 懐かしそうに目を細めるドクター・ペトレスク。

 私は手元のブラックコーヒーを一口飲んで、笑みを浮かべた。

「相当甘いでしょうね」

「甘いのが好きな国民だからね」

 そこで一息ついた彼は、目を閉じて考える素振りを見せ、少ししてから穏やかな声で告げた。

「皆、一つ年をとったな」

「……ええ。そうですね」

 それは孤児達のことだ。孤児ゆえに正確な誕生日が分からない。そのため体格からある程度を逆算したり、孤児院にいたのなら拾われた年数から数えたりと、大まかに年齢の推定をしていた。そこからは新年に皆一つ年をとる数え方をする。ルサリィも十七歳となった。

 子供の誕生日というのは、本来喜ばしくめでたいものだろう。しかし、ここは温かい家庭の代わりになる孤児院でもなければ、慈善団体でもない。ただの研究所だ。そんな場所にいる子供達に誕生日を決めても、祝うことなどしない。年齢はグラフの一つに過ぎない。人体実験という年月を重ねるだけの年齢は、子供達からすれば何を思うのだろうか。

 私は無言で、カップの中身を減らし続けた。ドクター・ペトレスクも黙っていた。妙に空気がしんみりとしていたが、その雰囲気を区切るように息を吐いたドクター・ペトレスクが足を組み直し、こちらを見る。

「……ところで、君のみているルサリィは、この頃どうだい」

「そう、ですね。芳しくありません」

 彼女の姿を思い起こして、小さく溜め息をもらした。

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