Chapter.11‐3
春から夏と季節は過ぎて、カタリーナのお腹が大きくなっていくのを眺めながら、帰ってきたミハイと三人でその日を待っていた。
そして秋。彼女は女の子を出産した。
病室で涙を流し夫婦二人で生まれたばかりの赤ん坊を囲む姿に、胸が熱くなる。その日はアパートに戻り、翌日も彼女のいる病院へと向かった。
ノックして入った病室には、ベッドから上半身だけ起き上がっているカタリーナが、昨日生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。優しい日の光が窓から差し込んで、部屋を包んでいる。
「プロフェソール! ごきげんよう」
ドアに手をかけたままの私に気付いた彼女は目を輝かせ、「入って」と明るい声を上げた。あまりに元気そうで上機嫌な様子に、調子はどうかときくのを忘れたほど呆気に取られた。出産祝いに買っていた乳児用のおもちゃをベッドのサイドテーブルに置いて、彼女達に近寄る。
「可愛いでしょう?」
カタリーナは抱いている赤ん坊に目をやると、その子の頭にゆっくりとキスを落とした。
赤ん坊を見れば、ふっくらとした肢体は服に包まれているが頬は柔らかな丸みを帯びていて、「ああ、本当に赤ちゃんなのか」という感想を抱く。それを口にするとカタリーナは吹き出して、「当たり前よ」と私の前にその子を向かい合わせた。
「あのね。この子の名前、昨日ミハイと一緒に決めたの」
そう言ったカタリーナの表情はもうすでに母親のそれで、子供を見つめる眼差しは慈愛に満ちていた。
「プロフェソール。……呼んであげて」
――呼んで。
その言葉に、はっとした。昔の光景が浮かび上がる。「彼女」の頼み。私に呼んでほしいと言った、あの時の言葉。カタリーナは知る由もないのに、二十一年前の出来事と重なった。
体が硬直して鼓動は速まり、頭は昔の記憶を色鮮やかによみがえらせていく。
不可思議な気持ちと予感に包まれて、ゆっくりと赤ん坊に目を合わせた。赤ん坊も同じく、じっと私を見ている。
カタリーナは穏やかな声で告げた。
「マリアっていうのよ」
……息が、止まりそうになった。
「プロフェソール。マリアというの」
カタリーナが腕に抱いたその子は、茶色に輝く小さな瞳をこちらに注いでいる。淀みのない煌やかで、澄んだ美しい双眸。懐かしい、あの眼差し。
私はゆっくりと瞬きを繰り返した。その度に何かが満たされていく。
この感覚は覚えている。二人きりの部屋、限られた時間を共に過ごすなかで得ていた喜びと同じだ。全てが幸福だったと言えるあの記憶たちに、いつになっても心が震えて仕方ない。
また会えたね……そう都合のよい錯覚すら生まれそうな、力強く愛おしい姿がいま目の前にあった。「彼女」は、そんな私を叱るだろうか。
深く呼吸をした私は、手を伸ばして互いに触れてみた。そして、ありったけの感情とともに名前を口にした。
「……こんにちは、……マリア」
その小さな右手に触れてした挨拶に、マリアはそっと指を動かした。
二〇一〇年。ルーマニア、秋。
――マリア、誕生。
End.