Chapter.1‐3
ルサリィのいる棟に隣接する建物に、研究者の私室がある。おおむね研究者はルーマニア国民でない限り、敷地外に居を構えるのは禁止されていた。私としては住居の用意があるのは宿代も浮いて助かるが、外国組の研究者の中にはホテル住まいを希望したり、近くに部屋を借りたりして完璧なプライベートを確保したい、といった意見も見受けられる。
しかし、その意見はそうそう通らないだろう。機密の保持という一点に尽きるからだ。ここは、そういう場所だ。
表向きは公的な医療研究機関であり、また多くの書籍・論文を収容している図書館も併設し、それは各大学及び研究所も利用可能といった複合的な研究施設でもある。だが実際はこうだ。確かに驚くほどの書籍・論文がある。専門雑誌もある。そのほとんどは医学誌で、特に数を占めるのが内分泌系についての研究論文だ。内分泌、つまりホルモンである。
この研究所は、孤児を使いホルモンの研究をする軍の研究機関なのだ。
ルーマニアに来るまでの私は、修士課程を終了したばかりの院生であった。大学時代からステロイドの作用について興味があり、卒論の研究テーマでも取り上げ、ゼミの教授とよく討論していた。その教授に院に誘われ、研究に勤しみ修士論文を提出した。その頃には、教授は退官して大学付属の研究所に勤務しており、私といえば助手の空きを探している身だった。
ここで願ってもない機会が湧く。再び教授に声をかけられたのだ。修士ののち博士課程に進む気はなく、研究で食べていきたかった私にとって「ぜひ来てくれ」という言葉は魅力的で、二つ返事でその誘いを引き受けた。
気がつけば、病態生理学の研究者である教授の助手としてルーマニアまでついてきて一年半が経過していた。だが二年目の秋には互いに別々の施設に異動が決まり、教授と別れた。それがつい一ヶ月前のことで、私はこの新たな配属先でサリィと出会ったのだ。
あてがわれた私室で昼食を終えてから、ルサリィに関する資料を読み直し、しばらくして彼女のいる棟へ向かう。午前中と同じく、建物内の軍人の視線を感じながらも、歩を進めて階段を上がって行く。その間も、彼女に関する内容を頭の中で反芻し、整理した。
そもそもルサリィという名は、個体識別のために付けられたものであり、彼女の本来の名前ではない。ここに入る孤児は名前を捨てる、それが決まりであった。彼女はここに入所して十年だ。その時から今の名前を名乗っている。
彼女の識別のための名、ルサリィ。その名はルーマニアに伝承される妖精から取られている。ルサリィは風を従える妖精で、善悪二つの性質があると言われていた。私個人としては初めて資料に目を通した時、あまりよい印象を持たない名前だと思ったものだ。
しかし実際の彼女は違う。
三階まで行き、彼女の部屋の鍵を軍人に開けてもらい、ドアを開けると――。
「ケイジ、やっと来た!」
待ってたの、と屈託なく笑んで私を出迎えてくれる彼女。思わず目を背けたくなるくらいの、純真な笑顔だった。
午後、ルサリィの問診を終える。そこからは、食事の話や彼女の興味のありそうなものについて二人で話しこんだ。会話の経過が一時間に迫る頃を見計らい、話を切り上げる。彼女に「また明日」と約束を取り付け、私室に戻った。いつも通りの一日だ。夕刻には、熱いコーヒーを飲みながら彼女の資料と別の資料の読み比べをしていく。
それはここにいる他の孤児達の成長記録と、孤児でない普通児童の、身体測定の平均サイズの表だ。比べてみてみると、これがなかなか興味深い。両者は身体的サイズがほぼ同様であり、環境条件においての差異がおよそ見受けられないのである。これは施設暮らしの子供にとって、特記するべき事項である。
通常、施設に暮らす子供というのはホスピタリズムに陥りやすい。ホスピタリズムというのは、乳幼児期から親元を離れ施設で暮らすゆえに、本来の情緒形成や身体的育成が出来ず、実年齢より発育が遅れてしまうことである。つまり施設の子供は、年齢に見合った発育過程を踏んでいない可能性が高いのだ。平均よりも小柄である傾向が強い施設の子供達。これは万国共通といえるだろう。しかしこの研究所では、ホスピタリズムとは全くの無縁であった。
普通の家庭で育つ子供のような発育を見せる孤児達。それは、ここが孤児院のように子供を集めていても、孤児院とは言えないからだろう。孤児を集めて、彼らを研究材料にする「孤児の収容所」。ここの研究は特異な例を研究するのではなく、普通の子供の肉体に及ぼす変化をみている。そのため研究する側としては、通常の子供から結果を採取したい。が、「通常の子供」というのは拉致でもしない限り無理な話だ。
現在のチャウシェスク政権は、その点、都合がよかったのである。多くの孤児が生まれたのだから。
研究のため軍及び研究所は、身体の成長だけは通常の育成過程を踏めるように、収容した孤児らにきっちりと食事を与えている。それも研究の成果を出し、正確な記録を残して後続の研究者達に追試研究をさせるためである。
ここにいる子供は、実験に使われるから飢えを覚えることはない。むしろ実験のために、孤児院よりも優遇された衣食住の保障がある。私が受け持っているルサリィも通常の子供と同じ発育を遂げていた。
丸みを帯びた女性的なラインに、あどけなさの残る、年頃特有の危うさ。
――少女と女性の中間である彼女は、十六歳の美しい女の子だった。