Chapter.10‐2
「やあ、おはよう。お揃いかな?」
私の声に、教室のあちこちから挨拶が飛んでくる。
「今日は質問の時間にしようか。テキストを見ても構わないから、日本語で会話をしてみよう」
言ったそばから次々に質問が出てきた。つたない日本語だが、受講生の一生懸命なところが評価に値する。日本の四季について、伝統文化について、あるいはサブカルチャーや、何が流行しているのか等、彼らは簡単な言葉を少しずつ並べて、最後に「先生はそれをどう思いますか?」と付け加える。そうして会話が生まれて、相互的なやり取りに発展していくのだ。
あっと言う間に時間は過ぎて、気付けば授業の切り上げに頃合いだった。テキストを整理し、脱いでいたジャケットを着て教室を見渡した。
「……さて、これくらいで終わろう。本当はみな勉強熱心だから続けたいけど」
「特別延長しますか?」という、どこからともなく聞こえた笑い声に私は首を振った。
「先約があってね。地獄のコーヒーが待っているんだ」
軽く嘆息してみせると、どこで覚えたのか教室中で「ゴシューショーサマ」が連呼され、思わず苦笑した。その声に後押しされるように、帰りの挨拶を済ませ教室を出た。
携帯電話を鞄から取り出し、カタリーナに電話をかける。すぐに、彼女の明るい声が聞こえた。
「カタリーナ。こちらは今しがた終わったけど、君はどこ?」
「まずいコーヒーが飲める場所よ、プロフェソール。今から駐車場に行くから、そこで落ち合いましょう」
土産は遠慮するよと告げれば、くぐもった笑い声が返ってくる。通話を終えて駐車場へと向かった。
二十年来の仲であるカタリーナには、先生と呼ばれていた。彼女も勉強会に参加していたため、その呼び名が定着している。
この間、本当に急激な変化を味わった。民主化の流れを肌で感じ、時代の潮流の中にいたのだ。カタリーナと共にルーマニア革命を経験し、東西の統合したドイツが出来上がっていく様を眺め、ソ連崩壊が報じられ……激動の情勢を彼女の成長と一緒に記憶に刻み込んできた。
肌寒い風に吹かれながら、私は懐かしさに襲われ歩く速度を落とした。
――八九年の革命後、年は替わり九〇年になった一月の中頃。あの教会で保護された十数日後に、一度だけ研究所――正確には研究所付近――の様子を窺いに行った。神父には仕事場の様子を見てくると言って飛び出した。研究所から何の報告もなしに消えた身だ、のこのこ現われればどのような扱いを受けるのか……。しかし覚悟はできていた。軍が研究を続けるかはさておき、私の存在は軍からすれば野放しにできるものではない。
政権崩壊した今、研究に関わった者達はいわば負の遺産。研究者らは、軍がそして自分達が何をしてきたのか、その内容がいかに一般に受け入れ難いものなのか理解していた。生き証人である研究者が、研究内容と共に表沙汰になれば軍も困る。いっさい口外しないという契約を結んでいたが、証書や言質をとっていたとしても何の気休めにもならないだろう。
それを考えれば口封じもありえた。おそらく研究所の孤児らは真っ先に「用済み」となったかもしれない。研究者は使いようによっては使えるのだから、どうなるかは不明だ。どの道、いずれ私を探し出すだろう。そのため少しでも自身が撒き散らす影響を減らそうと、持ち出していたものもあった。
研究所を抜けて広場に行った際、もうあそこへ戻るつもりもなかった。ドクター・ペトレスクが広場まで送ってくれることになった時、自室からあるだけの現金と、他者の連絡先を記した手帳、そしてパスポートとビザを持ち出していた。手帳、パスポートとビザは記載されている情報の悪用や万が一を考えて、だ。現金は当面の予算と、もしマリアを見つけた際は彼女と共にどこかへ逃げようと思ったからだった。しかし、それは果たせなかった。
マリアもおらず、帰国しても後ろ暗いだけの私には失うものはない。
あとに残されているのは「待つ」、ただそれだけだった。彼女が迎えに来るのを待っている、という人生。
研究所を見に行こうと決めたのは、喪失感を味わう日々の中、その約束が少しでも早まるのではないか……そんな希望もあって、戻る足に迷いがなかったのかもしれない。
しかし研究所の周辺に近付くと、私の期待は裏切られた。閉鎖されていたのだ。