Chapter.10‐1
――二〇一〇年、三月。ルーマニア。
「……ごきげんよう、プロフェソール・マキ」
柔らかで心地よい声音に、思わず笑みをこぼして私は振り向いた。背の高い書架に挟まれた通路に、茶色いソバージュの彼女が立っている。
「やあ、カタリーナ。相変わらず、おしゃまだね」
「おしゃまって……失礼ね。私、もう二十四なのだけど」
そう言ってクスクス笑う彼女に、肩をすくめて「そうだったね」と謝った。
ルーマニア革命から二十一年経ち、私は五十も近い年になっていた。
今でこそ振り返られるものの、激動の年月を思えば懐かしさだけでなく、胸に込み上げてくるものがある。目を閉じれば、あの頃の情景がよみがえっては引き返す波のように消えていく。それに浸って伏せていた瞼を開け、手元のテキストを抱えなおした。
「カタリーナ、送ってくれるかな?」
車のキーを右手の指に引っかけていた彼女は、大きく頷いた。
「もちろん、そのつもりで来たのよ。報告したいこともあったし」
「報告? いま聞こうか?」
彼女はニコリと微笑んで「授業が終わってからでいいわ」と背を向けた。彼女の後を追って、私も図書館から出た。
私は今、学業の分野で働いている。ブカレスト郊外の大学で日本語教室の講師として勤務し、その傍らで子供達のために勉強会を主催していた。子供達は、孤児あるいは元孤児がほとんどだ。孤児の中でも特に悲痛だったのが、セクリターテに関係した子達だった。
八九年の革命により、セクリターテに所属していた多くの孤児はストリートチルドレンになった。思想教育を受け、政権の思うように操られていた子供達。その政権が崩壊したために、行き場を失って革命の混乱に巻き込まれ、早急な手助けが出来ない内に暗い場所へと身を落としていった。
中絶禁止法が九〇年にようやく合法化しても、そうそう状況は好転せず孤児に関する問題は深刻である。いつの時代でも親が捨てるなら孤児は生まれるのだ。出生数が減ったといっても、革命前後でただ数が減少しただけである。
勉強会も当初は、政権崩壊前に生まれた孤児達の成長を見守る支援からだった。革命後、慌ただしい中で始めた頃はルーマニア語の読み書きや、学校で習う知識を教会や孤児院で教えた。現在も定期的に続け、それが縁で大学の語学教室の講師という職にもついている。
「……カタリーナ。それにしても大きくなったね」
助手席に座っている私は、ハンドルを握る彼女の横顔に言葉をかけた。
「あら、伝えたい意味はわかるけど、女性に大きいって言うの? 他に形容する言葉を探すべきよ、プロフェソール」
カタリーナの横顔は、嬉々とした表情で私をからかっているのが分かる。人によっては年上に砕けた口調はどうかと思う者もいるが、私には心地よかった。
「綺麗になったね、と言いたかったんだよ」
「ありがとう。嬉しい」
そう言ってカタリーナは笑った。
カタリーナは、あの時の女の子だった。教会で共に保護された小さな女の子。今や二十四歳だというのだから、時が進むのは早いものだ。
物思いに耽っていると、車は駐車場に止まる。目的地である大学に到着した。
「着いたわ。……ねえ、あとで時間を空けておいてほしいの」
「さっき言っていた話だね?」
そう、と頷いた彼女は左手首につけている腕時計を見て答えた。
「二時間くらいよね? 大学内をうろついていたら、あっと言う間かしら」
あとはお茶でも飲むわ、と言った彼女に一つ忠告をしておく。
「学内のカフェのコーヒーは最悪だよ」
それだけ告げて車から降りた私の後ろで彼女は声を上げて笑い、「プロフェソール」と呼び止めた。振り向こうとした矢先に、明るい声が飛んでくる。
「あとで差し入れしてあげるわね!」
あの何とも言えない、酸化した味を思い出して顔が強張った私は、彼女へ返事せずに駐車場を後にした。