Chapter.9‐1
腕時計で時刻が確認できるくらい、明るくなっていた。
二十二日の早朝。
あれだけ広場にいた市民の数が今はまばらになって、政権側、デモ隊ともに小康を保っているようだった。
夜中とは打って変わった静けさに、どこか冷静になっていくのを自覚した。
私はマリアのコートのポケットに手を入れた。そこにあったマカロフを取り出す。薬室内に弾薬がないことを確認し、同じくポケットに入っていた予備弾倉も掴み、それを自身のコートのポケットにいれた。弾切れ状態のマカロフは、マリアから離れた場所に捨て置いた。
眠っている小さな女の子を抱きかかえる。マリアをその場に置いて立ち上がった。
それが彼女の望みであると共に、私の償いでもあると思った。
瞼を伏せたマリアは、ともすると寝息が聞こえてきそうで、まるで微睡んでいるだけにしか見えない。
夜が明けて、彼女の姿がしっかりと浮かび上がる。コートは血が所々に染み付いて、髪の毛はわずかに乱れて肩から垂れている。顔も墨のような色が頬に付いていたり、小さな切り傷が見えたりしていた。
それでも、マリアは美しかった。
朝の光が祝福するように彼女の輪郭を照らしている。
その姿を目に焼きつけて、私はここを離れた。
彼女はきっと「特別」を望まない。最期くらいは、彼女を特別な世界から普通の中に埋もれさせてやりたかった。
それは私のエゴかもしれない。
実験体としての「生」を終わらせるのではなく、多くの「死」が積まれていく民衆の中で、街の片隅で、どこの誰かも判別できないその他大勢の死の中に、彼女を入れてあげたかった。
彼女の人生を人並みにしてやれなかった、今の私に出来る唯一のことだろうから。
広場の横を通り過ぎて行く中、空から多くの紙が降ってきた。広場にまた集まりつつある民衆の声を拾いながら、そこを抜けていく。彼らが口々にその降ってきた紙の内容を読むため、紙を手にしないでもどのような内容か知れた。
どうやら政権の宣伝らしく、「チャウシェスク政権を守れ」というような政権維持のビラをヘリコプターで撒いているのだ。
昨日の昼から深夜までの暴動を、大統領や側近がどこまで理解しているのか分からないが、もはや市民はチャウシェスクに屈することがないのは明白だろう。
私は、再び怒号に包まれ闘志で盛り上がっていく広場をあとにした。
広場に繋がる通りを歩いている間、ちらほらと軍も警官もいたというのに、発砲はしてこない。政権側もデモ隊も、とにかく広場や通りに集まっている皆が、ビラに注視している最中だったというのもあるのか、無事にその中を過ぎ去ることができた。みな行き交う人々を気に留めない。小さな女の子を抱えている私も、誰の訝しげな視線も感じなかった。
途中で、踏み荒らされた花壇や街中の木々の間に、こっそりと先程マリアのコートから抜き取った予備弾倉を放り捨てる。そしてとにかく足を進めて広場から遠くへと離れた。
どれくらい歩いたのか、疲れきった体では多少のことでも休息を要求し、足も悲鳴を上げている。この場で座り込みたくなるほど疲労困憊だった。けれど安心して休む場所が必要だと体を叱咤し、女の子を抱えながら周囲を見回す。すると視界の先、ずっと向こうのほうに教会が見えた。
……目的地は決まった。
女の子をしっかりと抱えなおした私の足は、わずかばかり軽くなってそこへ向かっていた。