Chapter.8‐3
時が経てば経つほど暴動は苛烈さを増していった。
彼女の体力もどんどん奪われていた。息は荒く不規則になり、暗闇でもその苦痛が見てとれる。
私は何度も胸のうちで繰り返していた。自身に、現実を受けとめさせるために。
……彼女はもう、ここから二度と立ち上がることはないのだということを。
相変わらず銃声が鳴り響くというのに、マリアの周囲だけはまるで別世界のように思えた。彼女の息遣いだけが、支配しているのだ。
「ケイジ。凍えそう」
そう言って震えるマリアに、私は自分のコートのボタンをはずして、そのまま中に閉じ込めようとした。向き合ったまま、互いに暖を取るつもりだった。
しかしボタンをはずそうとすると、マリアはフゥと息を吐いて苦しげ笑う。
「違う、ケイジが、凍えるの」
気にすることはない、と口を開きかけた私に、彼女は硬い声音で告げた。
「逃げて」
その声は、いやにはっきりと聞こえた。
「……マリア、何を言って」
思わず息を呑んで唖然としていると、彼女が畳みかける。
「逃げるの、ケイジ。ここから、逃げて、どこか暖かい所へ……」
小刻みに震える体を隠しもせず、彼女は有無を言わせぬ口調で「ケイジ」と呼んだ。
「この女の子を、ケイジ、お願い……」
少しずつ、彼女の言葉が染み込んでくる。
「安全な所へ連れて……」
彼女の言葉だけが、私の中で大きくなっていく。
「私は、いいの……お願いよ」
こだまする銃声と悲鳴の残響が減っているのか、妙な静けさを感じた。
「二人で、ここから……」
その先の言葉を彼女は言わなかった。
不思議なことに、広場の音は別のものに変化していた。
放水音。何かを流していく音。
彼女は再び「ケイジ」と強い口調で言う。
水流が弾ける音を聞きながら、思った。
……あれは、暴動の残滓を洗い流すのだろうか。血と肉と、魂を。
うなだれる私に、マリアは一言、告げた。
「さようなら、だよ」
私達二人を何度もつないでいた「またね」の言葉はもうない。
「ケイジ、さようなら」
言い聞かせるように、再度それを口にした彼女に私は力が抜けていった。
沈黙した私に、マリアは「ケイジ」と言った。返事を待っているのだというように、促すように、彼女は言った。
しばらくして私は、神の御前で祈りを捧げ頭を垂れるように、マリアの言葉に頷いていた。
納得しがたく、理解しがたいというのに、まるでその行為は何かに導かれたようだった。
空が少しだけ白み始める。
マリアの吐息も白色に染まって、空気中に溶け込んでは消えていく。朝靄のかかった、おぼろげな視界で彼女は私に笑みを見せていた。
その言いようもない煌やかな姿に、視界は呑み込まれていった。瞬間、今までずっと心に降り積もっては膨らんでいたマリアへの感情が、溢れ出る。
彼女に伝えたかった気持ちを、ようやく言葉に表せた。
「……とても愛しい」
たったの一言では抱えきれない感情を、心もとないまま吐息交じりの言葉に託す。これが、何と言うものか分からない。「愛しい」では形容できないことに、心が揺さぶられ高鳴っていく。
なのに、その心まで押し潰されそうなくらいの恐ろしい震えに、私は涙がこぼれていた。
何かがこわくてたまらなかった。
「君が、愛しい」
そんなことを思いながら、懺悔するように彼女に愛をすがっていた。
「マリア……マリア……」
もう言葉にならない。
それからいくばくもなく、マリアは胸の中の小さな女の子を私に預け、じっとこちらを見ていた。穏やかで美しい彼女の姿。
静謐な朝を迎えようとしているのか、広場の喧騒も嘘のように落ち着いていた。
もうすぐ、夜が明ける。
凍てつく気温だというのに全く眠気にも襲われなかった。空が薄い紺と灰色に包まれ、棚引く靄の隙間から、日の光の気配がする。
マリアは穏やかな笑みに似た声で、言った。
「ねぇ、ケイジ。私が来るまで待っていて。……それまで待っていて」
東の空が明るんで、やがてマリアは目を閉じた。