Chapter.1‐2
建物の三階に、彼女の部屋はある。
階段を上がりきると、目の前には二人の軍人が立っていた。その二人とわずかに目を合わせながらも、挨拶らしい挨拶はしない。彼らの横を通り過ぎ、廊下を歩けば等間隔にまた軍人が立っている。三階にある各部屋のドアの横に一人ずつの配置だ。六部屋のうち二部屋が無人であるので、部屋の前に立っているのは四人。
廊下の窓には鉄格子が外側に嵌められ、その格子に沿って途切れ途切れの陽光が床にストライプの影を映し出している。陰影の濃い廊下を歩き、最奥の部屋の前で足を止めた。
ドアの横の軍人は心得たりという顔つきで胸元から鍵を取り出し、ドア上部にある小さな覗き窓から室内の様子を窺って、細い鎖のぶら下がる鍵を鍵穴に差し込む。そこから響く「カチャリ」という軽い音に続き、引きずられるように開けられるドアの重い音。
ドアを開けた軍人の隣で、私は部屋の隅に立っていた人物にニコリと笑い、声をかけた。
「おはよう、ルサリィ」
彼女に会うのは、これで両手の指の数を超えた。
「気分はどうかな? さっきドクに会った時に、良好だって聞いたけど」
ドクとは、ドクター・ペトレスクのことである。場所柄ルーマニア語と英語が飛び交うが、ルサリィとの会話では、私は彼をドクと呼んでいる。私が来る以前より、彼女はドクター・ペトレスクを「医者」の意であるルーマニア語のドクトルから、「ドク」と呼んでいたためだ。
ルサリィに対し、なるべく穏やかな顔で語りかけ、ゆっくりと部屋の中へ入った。彼女はこちらの動作一つ一つに、深長な視線を投げかけている。部屋の中央までやって来た私の後ろでドアの閉まる音が聞こえて二人きりになると、彼女は口を開いた。
「元気よ、とっても」
「じゃあ、廊下を走って競争しようか」
運動不足なんだよ、と苦笑すると、ルサリィもクスクス笑った。
「ケイジ」
彼女は私をケイジと呼ぶ。牧圭司、それが私のフルネームだからだ。しかし彼女の呼ぶ「ケイジ」は若干イントネーションが違う。彼女の母語はルーマニア語であり、私との会話もルーマニア語だが、私の名前の発音に関しては英語のCAGEに近かった。
「何だい? ルサリィ」
首を傾げてみせると、彼女は着ている膝丈の生成りのワンピースに視線を落とし、太腿部分の皺を伸ばした。
「もうすぐお昼ご飯の時間だわ」
「そうだね。朝から待ち遠しかったよ、まったく」
私の呟きに、ルサリィは顔を上げて笑った。
「ケイジ。冗談に聞こえないのが不思議でたまらないわ」
こうして意味のない会話を出来るようになったのも、彼女が私との距離を縮めてもいいと思っているからだろう。最近になってようやく笑顔を見せてくれるようになった。しかし表情は好意的でも、目はそうでもない。接触回数が増える毎に警戒の色は薄まっていたが、やはりどこか緊張している感がある。今までの接触で、何とか彼女と会話を継続させるという課題を果たせてはいたが、親密な関係を構築するにはまだだと自覚していた。
「……ルサリィ、お腹がすいて大変だろうけど、食事前に経過観察するよ」
経過観察とは何のことはない、問診である。
「お腹がすいて大変なのはケイジのほうでしょう?」
バレたか、と腹に手を当て肩をすくめた私に、ルサリィは上機嫌な顔でベッドに座った。私は隅にあるパイプ椅子をベッドの隣へ持ってきて、そこに腰掛ける。
この部屋には物があまりない。ベッドと小さなキャビネット、それにライティングデスクと椅子。広さは日本の言い方だと、十畳あるくらいか。簡素で物が少なく部屋は広いのに、妙な圧迫感がある。それはひとえに無機的な雰囲気ばかりで、全く生活感の欠片がないように見えるからだろう。
ベージュ一色の壁紙に、部屋を飾り彩る雑貨もない。目につく色味といえば、壁紙と同系色のカーテンにベッドカバーだけ。おまけにカーテンを開けて窓から光を取り込もうが、開放感も何もない。窓は一つあったが、それも廊下のものと同じく外壁に鉄格子が取り付けられており、息苦しいだけだ。
私は一度だけ深く呼吸をすると、ベッドに大人しく座っているルサリィと目を合わせた。
「さて、ルサリィ。君が摂取したのは昨夜だったね」
すぐに彼女はうなずく。肩口にかかる茶色の髪が、さらりと揺れた。じっとこちらを見つめる瞳も同色だ。
「今日一日過ごして……そうだな、夜に飲むか、決めようか」
持ってきていた書類を開き、その中の一つである資料を取り出して目を通す。それは彼女について書かれている様々な記録で、言うなればカルテに近いものだった。身長・体重といった身体計測の基礎から、投薬の仔細や、彼女に関する注意事項まで書かれている。
「お。ルサリィ、背が伸びたのか」
日頃から観察して知ってはいたが、会話のためにわざと口にする。私が手元から目を上げると、彼女はこめかみ辺りにこぼれていた髪を耳にかけて、頬を緩ませた。
「だって成長期よ」
「そうだったね、うっかりしていた。立派なレディに成長する時期だった」
おどけて言うと、ルサリィは「失礼ね」と口を尖らせる。その元気そうな姿に、私は自然と言葉が出た。
「やっぱり経過観察は後にしよう。昼食後にまた来るよ、ルサリィ」
それは決められたスケジュールであったが、さも自発的な提案を装って彼女と会う約束をした。
「ケイジったら、なあに、そんなにお腹がすいていたの?」
無邪気に笑っている彼女の様子に、書類を閉じて椅子から立ち上がった私も微笑み、「そう、我慢できないんだ」と空腹を肯定しておいた。
笑顔で手を振る彼女に、「またあとで」と答えて部屋を出る。
ドアを閉めれば、待機していた軍人が近寄りすぐさま鍵をかけた。
「昼過ぎに来ます」
短い用件にうなずいた軍人は施錠を確認すると、私が来た時と同じくドアの横に立って鍵を胸元に仕舞った。