Chapter.8‐2
「……私の近くで騒ぎ出した人がいて、その人を撃った人がいたの。同じ様な拳銃を持った同じくらいの年の子だった。だから、私、撃った」
彼女は力なく笑う。
「そうしたら、撃たれて、足に当たったの」
マリアは私に、彼女の数時間前の状況を説明してくれた。チャウシェスクがバルコニーから姿を消し、まもなく始まったデモに彼女は入り込んでいたという。
それから市民を撃った青年を見つけた彼女は、背後から狙撃した。しかし運悪く青年にすぐに気付かれ、反撃に放たれた最初の一発が彼女の足を擦ったらしい。そのまま別の場所へ急いで移動し、上手く逃げおおせた彼女はまた、市民の固まりの中に溶け込んでいたという。
「それでね、ケイジ。私、この子に会ったのよ」
マリアはそう言って、彼女の隣にいる小さな女の子を見下ろしていた。
「誰かが抱っこしていたのかもしれないけれど、騒ぎの途中で手が離れたのかな……もう日が暮れていて、一人で立って、泣いていた」
彼女は暗闇でも見えるくらい震えて、寒いねと笑う。
私はマリアに近付いて、大きく開いて膝を立てた足の間に、彼女と女の子をいれた。
その様子に、マリアは短い息を浅く続けながら「この子、私の太腿にのせて」と言った。彼女の足に負担がかからないか心配した私をよそに、彼女は「早く」と急かす。希望通り太腿の上に女の子をのせたマリアは、その子の頭を抱えて自身の胸に優しく抱きこんでいた。
私も更に距離を詰めて、二人を抱きかかえるように挟む。
至近距離になった私の顔を見ながら、マリアはさきほどの続きをゆっくりと教えてくれた。
「それから、ずっと、この子と一緒にいたの」
マリアは再び視線を下に落とした。
「それで、さっき、よ」
彼女は、何度も苦しげな呼吸を繰り返す。
「……暗くて、よく、わからなかった」
声が小さく震えていた。
「気付いたら、背中、が、熱くて、たまら、なかったの」
そして、途切れ途切れになっていった。
私はそっと、彼女の頬に手を伸ばした。
「病院は、いい。もう、疲れた。検査されるのは、しんどいもの」
外気に触れて冷えているというのに、私の手の上に流れ落ちたものは、恐ろしく熱かった。
……彼女をこんな風にしたのは、私だ。
検査をされるのは、白衣を着た人間に囲まれるのは、身体を触られるのは、もう、いい、と。
彼女に言わせているのは、私だ。
「マリア、すまない、すまない、ごめん……」
謝って謝っても、自身が悔しくて許せなかった。歯を食い縛って嗚咽をこらえようとするのに、涙が溢れて止まらなかった。
泣いて喚いて、誰かに感情をぶつけたいのはマリアだというのに、私は、彼女の肩口に項垂れては謝罪を繰り返していた。
腕時計の時刻は夜中あたりを指しているだろう。
正確な時刻は分からない。だが、今いる場所からここに入るのに使った、広場へ繋がる細い通路の先には明かりが点滅していた。時々、閃光のようなものも届いていたから、その光に当てて腕時計を見ていると、日付が変わったのは分かった。
どうやら政権側の本格的な鎮圧が始まったらしく、もの凄い音と光が、辺りに騒ぎを撒き散らしているようだ。
人の叫び声と銃撃音と、そして何より異様だったのが、耳慣れない音の連続が広場から響いていることだった。
物を薙ぎ倒すような、ひき潰していくような、重厚な走行音。おそらく、配置されていた戦車だろう。あれらが包囲を解いたのだ。
もう政権側は威嚇だけで終わらせるという頭がないのかもしれない。手段が変わった。圧倒的な物量の差で、民衆を押さえ込む気だ。
地表が揺れるような轟音と、壁が崩れるような音、バラバラと銃弾がひっきりなしに物に当たる音。
大きな音の中でチカチカと光る街灯に閃光が混じり、ここまで明かりを届けているのをぼんやりと視界におさめながら、目の前にそびえる大きな壁を見上げて……ようやく気付いた。途端に耳の奥がツンと切れたように周囲の音を遠くに感じる。
ここにきて私は、早急な救助の可能性について失念していたことを、その制圧行為によって突き付けられた。マリアと少女を抱えて、目の前にある外壁の建物に救助を求めて動けばよかったのに、その考えが抜けていたのだ。
しかし今更な案に、頭を抱える。もうホテルに駆け込むのも、どこかの建物に駆け込むのも、危険だろう。
あれだけ容赦のない銃撃音なのだから、駆け込んでいる間に後ろから撃たれるのは目に見えている。
なぜ早くに気付かなかったのか。そればかりが頭の中に押し寄せる。
向こうからはその間にも轟音が、粉塵が、臭気がこちらにまで届く。おかげで訳の分からない興奮状態を持続させられているのに、神経が麻痺していくようだった。瞬く間に刺激された五感が凄絶な情景を頭の中で作り上げては、こみ上げる吐き気と言い知れない緊張感に、身体のほうが悲鳴を上げそうだ。
あまりの現実味を欠いた状況に、少しでも隙間を埋めたくなる。私はマリアと、彼女が抱いている女の子に触れるくらい詰め寄って、マリアの肩と腰にほんの少しだけ自身の両手を差し込んだ。
壁に背中を預けていないと苦しいだろうから抱きしめられないが、それでも寄り添っていたかった。
マリアは、浅い呼吸を繰り返しては呻く。
すぐ先で見える状況は夢であってほしいと思うのに、私の手の中に伝わる温度は現実だった。
少しずつ、冷気が彼女の熱を奪っていくのだ……。