Chapter.7‐1
ルーマニア共産党本部庁舎前の広場。熱気に包まれていたそこは多くの民衆で埋め尽くされ、まったく何がなんだか分からないくらい視界が遮られていた。かろうじて見えるのが、多くの国旗と大統領夫妻の顔写真のプラカード。そして遠くには庁舎のバルコニーが見えていた。
私の腕時計が十二時半を指そうという頃、バルコニーに男が姿を現した。
ルーマニア大統領、ニコラエ・チャウシェスク。
その途端、耳をつんざくような凄まじい音が轟いた。
歓声と拍手と、万歳の入り混じった、圧倒的な音の洪水で広場が溢れかえる。
大統領がマイクの前に立ち、民衆をおさめると演説は始まった。
私は、マイクから響く声の主を見ていた。きっとこの広場のどこかで、マリアもあのバルコニーに立つ男を見ているはずだ。
何かが起こるまで。
……その何かは、演説が始まって間もない内に起きた。
爆発音。
威力のあるような音ではなかったが、明らかに集会には似つかわしくないものだった。
その音に、一気に身体が前方へと押された。周囲の人と互いに詰めあうようになり、肩がぶつかる。
私は急いで庁舎を見た。どうやら向こうまで聞こえたらしく、演説が中断されている。しかし、しばらくして民衆に声を投げかけた大統領は演説を再開した。
それから何事もなく進み、早々に大統領は夫人と共にバルコニーから消えた。
……何かが、おかしかった。
その疑念を抱いた時、私のいる場所から遠く、突如として怒号が聞こえた。そこから一気にざわめく声と、困惑で動き始める人々。私の近くにいた人々は、最初の内はキョロキョロと周囲を見渡しており、私自身も全く何が起きているのか分からなかった。
やがて混雑の中で身動きがとれるくらいのスペースから、数歩ずつ歩けるくらいの距離を互いに保てるような隙間が出来た瞬間、今度は発砲音が近くから聞こえた。
混乱は一気に拡散していった。
水面にものを落として波紋が広がるように、どこかで中心となった火種が、輪を描いて喧騒という形で広がっていく。
そこからは、あっという間に呑み込まれた。
次々に叫ぶ者が現われ、戸惑いの声とその中に混じる絶叫が耳に入る。逃げ惑う人、パニックに震える人、怒りの形相の人。
首を左右に何度も動かして、しきりに状況を理解しようとしても、無駄なことだった。
また発砲音が聞こえ、今度は人の波が押し寄せて来る。「逃げろ!」と「どけ!」しか聞こえず、あとは悲鳴に掻き消された。
そうこうする間に、私もその波の一部に取り込まれて、どこに向かっているのか分からない力に引きずられる。途中、倒れていく人が続出し、危うく足を取られそうになった。
発砲音が、また聞こえた。今度は一発で収まらない。嫌な音の連続に、ぞわりとする冷たいものが背筋を舐め、肌が粟立つのを自覚した。
広場は、怒号と「チャウシェスク!」と叫ぶ声、「ティミショアラ」という高らかな声、そして悲鳴。
どれもこれも、現政権に対する不満が噴出した瞬間だった。
民衆が圧倒的な力と熱量をもって、一丸となる。
あまりの転換に、私は呆然としていた。
研究所……いや軍上層部は、これを待っていたに違いない。