Chapter.6‐2
十一時頃。マリアは、軍人と共に研究所を後にした。
チャウシェスクの支持集会は、ルーマニア共産党本部の庁舎前で行われる。演説をするために庁舎のバルコニーに姿を現すらしく、庁舎前の大きな広場にはおよそ十万人は動員される予定だと出発前の軍人から聞いていた。
その場所に今、マリアは向かっているのだろう。
私は彼女と別れる時、何も言えなかった。
さよならとも、気をつけてとも、頑張れとも、心配だとも、言えなかった。
行かないでくれと、帰ってきてくれは、もっと言えなかった。
彼女の決意を知っているから、何も言わずに送り出した。敷地内で軍が用意した車に乗り込んだ彼女は、一度たりとも振り返ることはなかった。
段々と小さくなっていく車を見つめて、その姿が視界から消えてもしばしの間、そこに立ち尽くしていた。
冷たい風が、私の頬を撫でていた。
――ノックの音がした。
「ここにいると思ってね……」
ドクター・ペトレスクは呟いて、開けたドアから室内に入った。部屋の中央で立っていた私は、床に視線を落とす。
「鍵すら、かかっていなかったんです」
私はマリアの部屋にいた。彼女を乗せた車を見送った後、吸い寄せられるように彼女の部屋を訪れていたのだ。
「そうか」
彼の落ち着いた声音の上から、自身でもどうにもならない感情を言葉に変えて、吐き出していく。
「彼女がいないのなら、ここは空き部屋になるので、鍵をかける必要はないんでしょうね。明日にはこのベッドもデスクもみんな、処分される」
「ミスター・マキ」
「……深入りしなかったら、気にも留めないことだったのかもしれないのに」
気付けば、訳の分からない笑みが吐息と共にこぼれていた。
この喪失感は、研究者として彼女を見ていただけなら味わうこともなかったはずである。しかし、それを知ったところで彼女の未来は変えられなかっただろう。
ベッドを眺めていると、彼女がそこに座っている姿を想像できそうで目を閉じた。
マリアが笑い、マリアが見つめ、マリアが私にキスをくれた様々な記憶が流れていく。もう彼女はいないというのに、ここは彼女の空気で満たされていた。
思わず……マリアと口をついて出そうになった瞬間、私の耳に予想だにしなかった提案が駆け込んできた。
「広場に行くかい?」
その言葉に目を見張り、振り返った。
「ルサリィ……マリアに会えるかは分からないが」
ドクター・ペトレスクは真面目な口調と表情で尋ねる。
「どうして……」
言葉にならない私に、彼は一歩こちらへと近付いた。
「車を出せる。集会といっても、今はどうせ余興の時間帯だ。皆が大統領の賞賛合戦をしているさ、まだ間に合う」
どうする? と最後に付け足した彼に、私は迷いもなく答え、頭を下げていた。
「お願いします」
二人そろって孤児を収容している建物から出た。一度、私室に戻ってから彼と合流し、数歩先を歩いている彼の誘導で敷地の正門近くに置かれていた車に乗り込んだ。
軍人がいつものように監視をしていたが、不思議と誰も私達の行動を咎めなかった。事前に車の準備を申請していたのかと尋ねると、彼は車を発進させてから告げた。
「あ、そうだ、車はいいが……同行者がいることを申請するのを忘れていたよ。ミスター・マキ、帰ったら始末書でも書いてくれ」
そう言って溜め息まじりに笑った彼は、悪いね、と大して気にしている様子もなく詫びた。
敷地の外に出る。私は後方に流れていく景色を車の中で見つめていた。そうそう見る機会もなかった景色だというのに、目にしても特に感慨は湧かなかった。ただマリアのことだけを思い、広場に着く時間だけを考えていた。
チャウシェスクの支持集会はこの研究所と同じ、首都ブカレストで行われる。
共産党本部に向かう道すがら、ドクター・ペトレスクと私は言葉を交わさなかった。
しばらくして、目的地との距離が縮まってくる。庁舎前の広場近くに着いて車は停まった。私はシートベルトを外し運転席の方を向いた。
「ドクター・ペトレスク。ありがとうございます。何とお礼を言えばよいのか……。本当に感謝しています」
頭を下げた私に、彼は「そんなに言われるなら、罰則食らう甲斐があってよかったさ」と笑った。
「何故そこまでしてくれるのですか」
口をついて出た問いに、彼は「言っただろう?」と目を細めて、頬を大きく上げた。
「甘いのが好きなんだよ」
――甘いのが好き。
その言葉をどこで聞いたか思い出すのに時間がかかっていると、彼は清々しい表情に笑みを浮かべてみせた。
思い出した。ソ連のサモワールの話をした時だ。紅茶とジャムを一緒に飲む習慣について。
あの時の会話の前後は今と違うので、文脈がまったく繋がらない内容だというのに、彼の言った意味が理解できた。
甘いのが好きな国民だからね……彼は以前そう言っていたのだ。甘いのが好きな国民。その国民とは「ソ連人」を指しているはずだった。
それだけじゃない、彼は上層部に精通しているような内容も話してくれたし、ルサリィの本当の名前を知っていた。上層部というのは機密を扱うのだから、愛国心に溢れた国民が望ましいだろう。ルーマニア国民であるという自負を持つ、「ルーマニア人」が。
「ドクター・ペトレスク、あなたは……」
唖然としてこれ以上、言葉を紡げない私に、彼は柔らかな声で告げた。
「降りなさい。……もし今度会えたら、スタリーチナヤを奢るよ」