Chapter.6‐1
十二月二十一日。
私は昨夜から一睡も出来ずにいた。
この日は早朝から彼女の部屋に来ていた。彼女を実験体「ルサリィ」として、経過観察しなければならないからだ。
あれほど昨日、彼女と話せなかったというのに、仕事になるとまったく不思議なもので、私は彼女をルサリィと呼び、淡々と彼女に接することが出来ていた。互いにここ数日の出来事がまるで嘘のように、日常の延長線と錯覚してしまいそうなやり取りをしていたのである。
ただライティングデスクにあるマカロフと、それを持ってきて、部屋の隅に控えている昨日の軍人が、私と彼女に現実を意識させていた。
私とマリアの二人だけの世界は、この部屋にも、もう無かった。
「広場に正午前に着くようにする」
マリアに付き添う軍人は、事務的に言った。
今は研究所内の、正門から一番近い場所の建物で待機していた。小さな会議室のような雰囲気のそこは、椅子と大きなテーブルしかない。
私はマリアの隣に座っており、その近くに一人、さきほどからマリアに付き添っている軍人と、あともう一人がドア付近で監視するように立っていた。
大した時間も経たないうちに、近くにいた軍人が口を開く。
「彼女に説明をするので、退出を」
軍人は私に、静かに言った。
部屋を出たらドアの前で待とうと思っていたが、そこにも控えが二人いたので、少し離れたところで立ち止まり、壁に背をもたれさせた。目を伏せ、その場で座り込みたくなるのを抑えて、腕を組んで俯くだけに止める。
しばらくそうしていたら、ドアの開く音が廊下に響いた。
顔を上げると、姿を現したのはマリアではなく、室内のドア付近にいた軍人だった。その軍人は、私のほうへ目配せした。
部屋に戻れという意味だろうか。
そう解釈した私は、組んでいた腕を解き壁から背を離した。
室内に戻ってみるとマリアは椅子から立ち上がり、彼女の脇にいた軍人に視線を移した。
「五分もいらないです、お願いします」
彼女の言葉にすんなりと頷いた軍人二人は、ドアの前で立っている私の横をすり抜けて、部屋から出て行った。
その行動が解せないでいると、マリアは難なく言ってのけた。
「二人きりの時間を少し下さいって、頼んでみたの」
「それで五分? ……たった五分?」
私の言葉に彼女は、そうだよと頷く。制約された時間だからか、彼女は私を手招きしながらも自ら近付いてきた。私も数歩、足を進ませ彼女の目の前に立った。
互いに至近距離で向かい合う。すると彼女は、私の顔を見上げて言った。
「少しだけ、手をつないで」
彼女が言葉と共に私の胸の前に差し出した両手は、わずかに震えていた。
「お願い……この手が綺麗なうちに」
――その意味が分かった瞬間、私は彼女の両手を奪うように自分の両手の中に収めていた。
「マリア」
彼女の両手ごと自分に引き寄せて、その小さな両手を自分の胸元の前で包み込んだ。
彼女は深く息を吐く。
「マリア」
私はもう一度だけ、彼女の名前を小さく呼んだ。
少しだけ胸元から離れて私の顔を覗きこむ彼女に、私はたまらない気持ちを抱いた。その気持ちは、何と言う代物なのか、どんな言葉で表せばいいのか、全く見当がつかない。
それでも少しでもいいから伝えたくて、次の瞬間には彼女の前に膝をつき、彼女の右手の甲を自身の額に押し当てていた。そして両手で彼女の右手を掬うように握り、彼女の指先に唇で触れた。手の甲にも口付けを落とした。
……私はきっと、彼女に赦しを乞い、彼女の情愛を授かりたかったのだ。
静謐な空間で行われたそれは、まるで何かの儀式だと、自身で思った。
私達はそれ以上、何も言わずに、ただ時間の許す限り手を解かなかった。