Chapter.5‐3
二十日。
いよいよ明日となった。この日、彼女は銃を渡された。
彼女の手には似合わないフォームのそれは、黒い拳銃。PM――Pistolet Makarova――、俗に言うマカロフ拳銃だった。ソ連製の、トカレフの後継として製造されたマカロフ。ソ連国内と共産圏の軍将校が使い、あまり市場に出回らない代物。
手に収める彼女には、本当に不似合いだった。
彼女の手はこんな物を握るためにあるのではない。こんな物など握って欲しくなかった。マリアが大切に胸に抱える価値など、ないというのに。
「軽い……こんなに」
マカロフを両手で掬うように手にした彼女は、ゆっくりと言葉を吐く。
一昨日はじめて訪れた所長室で軍人からそれを手渡されたマリアは、拳銃の感触を確かめていた。
私は、ただ黙って眺めていた。彼女からそれを奪うこともしなかった。傍観者のように無力に立ち尽くしていた。
「明日の朝、君用に一丁渡そう」
軍人はそう言って、マリアからそれを取り上げた。彼女は頷く。
それから軍人は事務的に、本当にそう思っているのか分からない言葉を彼女に贈った。
「期待している」
間髪いれずに「はい」とわずかに声を出した彼女。
呆然と、そのやり取りを見ているしかなかった。私は恐ろしかったのだ。目を伏せたい衝動に、しかしここでその衝動に身を任せれば、もっと恐ろしいだろうと必死でマリアから目を逸らさずにいた。けれど、それでもたまらなく恐ろしかった。
マカロフを握っていた彼女の手よりも、きっと私の手の方が震えてならない。
いま私の手には、彼女に関する資料の詰まったファイルがある。
それがもうこれ以上、厚みが増さないことを恐ろしいと思った。
所長室からマリアを部屋に連れ帰っている間、私は終始無言だった。部屋に戻ってからも、口を利けなかった。彼女も、黙っていた。
私室に戻らなければいけないのに、私は彼女の前から一歩も動きたくなかった。彼女はいつも通りベッドに腰掛け、私もいつも通りパイプ椅子で向かい合うように座っている。
ただいつもと違うのは、言葉を交わさない、それだけだった。
音もない静かな空間で、さきほど見たマカロフを持つマリアの姿を思い出す。
彼女は明日、あれを使うのだろう。誰かに向けて、使うのだろう。
発砲すれば発砲した側も危険だというのに、彼女はそれを知って使うのか。それに気付いていて使うのか。
……日頃から訓練されている者達に、太刀打ちできるわけがない。撃てば撃たれるだろう。相手を狙うというのは、その相手に狙いを定めたこちらの場所もわかる。しかも拳銃だ。有効射程距離の短さは、同時に彼女の、相手との近さを表している。
彼女に対し、上層部はけしかけるだけだ。彼女の放つ一発を足しに、流れを変えようとしている。
民衆に、打倒チャウシェスクを掲げさせ、その場で叫ばせるためにマリアをダシに使うのだ。
……少女が不満を抱える多くの民衆の前で、その根源である一派に捨て身で食らいつく。
その姿を、そこに集う者達に示すために。変革の波を起こすために。立ち上がらせるために。
それは犠牲というのか、見世物というのか。
思わず深く息を吐くと、マリアが部屋に戻って初めて口を開いた。
「ケイジ……」
俯いていた顔をすぐに上げた私に、彼女は苦笑した。
「呼んでみただけ」
いたずらげなその声に、私は何と声をかければいいのか分からない。
「ケイジ」
彼女は再び言った。
「ケイジ」
そうして三度呼ばれる。
「マリア、どうしたの」
耐えかねてそう言うと、また彼女が私の名前を口にする。その声だけで、身体が痺れそうになった。
「……ケイジ……ケイジ」
しかし何度も呼ぶその声が、徐々に震えていく。
「ケイジ」
何かに耐えるために、きっと名前を呼んでいるのだ。
私はじっと彼女だけを見つめた。
「ケイジ」
マリアは震えを隠すように言うと、笑みを浮かべて別の言葉を放つ。
「……また明日」
いつも通りの言葉が、それを私に告げる彼女の優しさが、残酷な未来を思わせる。
おそらく今日が、その言葉を言う最後の日になるだろう。
私は何も言えない。何も反応出来ない。マリアを助けられる力を持っていないせいだ。
彼女に関する研究資料の最後のページに、私は明日、何を書けばいいのだろうか。